「生まれつき病弱」という過酷な人生
生きているだけで苦しい人は多かれども、「心因性ではない方で肉体的に苦しくて」、「なおかつそれに対して病気を認定されていない」人はほとんどいないだろう。
自分はそういう特殊な人間として生まれてきた。
今は27歳になる。
(全体的に時系列でしか語れない上、すごく長くなってしまったがご容赦願いたい)
疾患一覧
まず先に、自分の持病や疾患をリストアップさせて頂く。
ここは長いので流し読みで構わない。
・視覚過敏(家電量販店やドラッグストアのような「白い光だらけ」の空間が眩しすぎて耐えられないだけでなく、自分の場合「0.4以上が見えるメガネがかけられない」という謎のものもある。これのせいで免許が取れない上に家では0.1しか見えないメガネじゃないと頭痛目まい吐き気に襲われてしまうので、毎日ギリギリ見えない生活を送っていて大変ストレス)
・聴覚過敏(耳が良いといえば聞こえは良いが、実態は「PCやテレビの音量が強制的に2倍になる」の方が近いので些細な音や大きな音どちらでもストレスを感じやすい)
・触覚過敏(1万円の良い電動シェーバーを使ってひげ剃りをしても丸一日寝込む。爪切りをした日には深爪しなくても2日寝込む。しかし少し伸びるだけでもこれまた触覚過敏のせいでストレスが過大になり発狂しかねないくらいなので切るしか無く、何もない日でもたまに指の先が鋭敏になってタイピング等がままならないこともあり、何をするにおいても不便)
・コリン性蕁麻疹(冬などの汗をかきにくい季節や環境で汗をかこうとする(運動する・暖房の効いた所に行く・お風呂に入る・辛いものを食べる)と、汗の代わりに蕁麻疹が首から足の甲まで全身という全身に出て、かゆみではなく「剣山に刺されたかのような痛み」に襲われる。酷い時はその場にうずくまって動けなくなるぐらい痛い)
・心因性腱鞘炎(大学時代に発症。あらゆる精密検査をしても異常なし。タイピングやスマホ長時間など指先か手首のどちらかを使いすぎるとイエローシグナルとして腕がだるくなり、それでも使うと丸1ヶ月以上は手首から先が全て痛くなる。特効薬を見つけるまでは1日4回ロキソニンを飲んでもまだ足りないくらい痛く、多大なストレスで眠りも浅くなる上に、主にこれのせいで就労ができない。後述するが特効薬も耐性が付きやすい特殊な薬なので頻繁には飲めない)
・アレルギー性結膜炎(微量なハウスダストで反応。コンタクトが全くつけられない。メガネしが選択肢が無くなるのだが、コンタクトよりもメガネの方が圧倒的に「視覚過敏による視力矯正の制限」の影響を受けやすくなってしまうので負の相乗効果となっている)
1つ1つは何とか頑張れば我慢できそうではあっても、「全てが常に」1つの肉体に加わっているのを想像するととても耐えられないであろうことは想像に難くないと思う。実際私は毎日寝込んでいる。
さて、こういう文章は「物心ついた頃から~」と始まるのがほとんどなのだろうが、自分は生まれる前から一波乱あったのでそこから記載する。
生まれる前
母が自分を身ごもるちょうど1年前に、ある日トイレに行ったらニュルリとした赤い何かが出たらしい。
トイレから出て同居していた父に話し、病院に行った結果「実質的に流産していた」らしいと判明した。
その赤い何かは胎児だったのだ。
(こうして書くと胎盤がどうとか身体構造的にありえなさそうとか自分としても少し疑問はあるけれど、当事者や関係者が言うのだから結論の部分はそうなのだと思う)
そして母は自分を身ごもった。そこまでは普通だった。
出産予定日が2月17日だったのだが、その3ヶ月前である11月頃に前置胎盤が発覚した。緊急入院し、予定帝王切開が決定した。
前述した流産の件もあり、母は私を無事に産めるのかという不安に毎日苛まれていたという。クリスマスも病院で寂しく過ごした。
(今思えば、この時に常に不安だったせいで胎児である自分にまで不安の感情が伝わってしまい、そのせいでメンタルが不安定になりやすくなったという可能性もある)
そして予定日より丸一ヶ月早い1月18日、陣痛が来て6時間の格闘の末、今度は緊急帝王切開へと変更してそのまま出産した。1900グラムの未熟児だった。
生まれてから1ヶ月間は、NICUという無菌室のカプセルで育った。一時期は五体不満足どころか、知的障害を持ってしまうと危ぶまれたらしい。父も母も泣いていたと聞いた。
結果として無事五体満足で知的な問題もなく育ったが、ADHDとASD両方を持って生まれてしまうこととなった。(大学中退後に受けたWAIS-IVで発覚)
そして何度考えてもこの1ヶ月間の無菌生活が後の病弱人生の始まりだったと思う。
結局のところ、人間は無菌では健康に育たないというわけだ。
幼少期
幼少期についても詳細に記すべきであるのだが、意外なことに私には幼少期の記憶がほとんどない。特に幼稚園時代のことは全くと言って良いほど覚えておらず、せいぜい親に尋ねて「そういえばそうかも…」と言ったエピソードが数個ある程度だ。当時いた8人くらいの友達の名前は一ミリも思い出せない。
小3からの記憶はあるけど、病弱に関するエピソードは特に無いので飛ばさせて頂く。
(書けるのは小1の頃に持久走の度に頭皮がかゆくなっていたくらいだが、これがコリン性蕁麻疹だと発覚するまで年数を要した)
しかし高校になるまでの間に1つだけ特筆すべきことがあるとすれば、年長の頃に小さなピアノのおもちゃをひたすら弾いていたおかげで、絶対音感を習得したことだ。これは例えるならば脳内にいつでもピアノがあり、どの音を聞いてもピアノの上で鳴らせることができると言った感じである。
大人になってからは、聴覚過敏のしんどさを「絶対音感の代償」だと自分に言い聞かせながら過ごすことになる。それと、意外といわゆる普通の人は音楽や音に対してのこだわりはあれども、「音程」に対してはほとんどこだわっていないということを少しずつ知ることになる。
小中はADHDの多動がウケとして捉えられそこそこ良い日々を過ごすが(中学で先輩からいじめられたことは多々あった)、その後偏差値60後半の公立高校に入り、その時になってようやく「自分は体と脳が普通よりも弱い」ということを強く突きつけられることになる。
高校中退かつ大学中退
高1で無意識のうちに無理して勉強していたのが半分、当時いじめられていたのが半分で、なんと高1の誕生日直前の冬にうつ病を発症。まだ16歳だった。
当時は「うつ病」という単語が出始めたばかりで、世間や周囲の理解も薄く自分に合った病院を探すだけでも1年はかかった。5つくらい転々としたと思う。
父親が理解を示す姿勢であったのが救いではあるが、父自身は健常者でありふとした瞬間にいわゆる「頑張れ」的なことを言われてその度に精神が摩耗。
高校は不登校気味になり、3年生の6月から全く行かなくなった。(この辺りから聴覚過敏を発症し始めていたのだが、今思えばストレスが原因の可能性が高い)
一方、裏で高卒認定の準備を進めており、無事に取得。中学時代にガリ勉で学年10位以内だったのが生きたのだろう。そのまま大学も私大へ合格して実質現役で進学。
(うつ病のことを考えると大学へ行っている場合ではないと思われそうだが、当時は母親が筆舌に尽くしがたいほどの毒親で「一人暮らしして今すぐ逃げ出さねば」と思ったのである。現に高校を休んでいる間は専業主婦である母と基本2人きりであり、過干渉&ヒステリック&利己主義でうつが着々と悪化していた)
大学は一人暮らしの新環境で緊張しつつもハイになってたのもあり、人並みに単位を取得できていた。
帰り道にあるゲーセンで少しだけ音ゲーをしてから帰るのが日課になっていたのだが、2年前期に「それ」は唐突に訪れる。
自分は趣味で絵を描いたり本を作っているのだが、それはいわゆる同人誌(個人誌)を作っていた時だった。
太鼓の達人の指バージョンを想定してもらえればイメージし易いと思うのだが、音ゲーというのは腕や手首がとても疲れる。そして疲れた腕を、当時同人誌の締め切りも迫っていて休めない原稿を前に無理やりペンを動かしていた。いつもなら音ゲーで腕がだるくなった時は料理含め手首を使う作業はほどほどにしてなるべく安静にしていた。
その日からであった。朝起きても腕がだるいのである。普段はゲームや原稿で腕が疲れても寝れば回復するのに、何度寝ても何日経っても治らなかった。
発症したのが6月後半だったというのもあり、7月にかけて色々な授業の試験があったのだが、筆記試験で「これ以上腕を動かせそうにない」という人生始めての状況に見舞われてしまう。
具体的に話そうとしても例え話を挟まないと上手く説明できないのだが、「目の使いすぎでドライアイになった時に瞬間的に感じるストレス」を腕で連続的に感じている、といったのが一番近い。
在学中、整形外科の中でも良いとされている「スポーツ外科」に十数回は行ったのだが、湿布とロキソニンを出してもらうだけで全く良くならなかった。
それでも3年前期はロキソニン&湿布&サポーターで無理やり試験を受けて何とか単位を取る。確か24単位中18単位なので、まあ中の中と言ったところだろう。
しかし冬にうつが悪化し、その際に父に頼ったら厳しく突っぱねられてしまう。その際のメールは何故か見つからなかったが、そこで心が折れて一気に不登校となった。
そしてそれまで何とか気合で治療出来ていたコリン性蕁麻疹だったのだが(冬に熱い風呂に長時間入り、蕁麻疹が出ても耐えることで汗腺を開くようにして抑えるといった行為を繰り返すことで日々の蕁麻疹も発症しないようになっていた)、うつが悪化してからは風呂も入れなくなり中退後に再発することになる。
結局4年前期で大学を中退。思えばこの頃から視覚過敏や聴覚過敏・触覚過敏を意識し出すようになった気がする。
後期が終わって実家に帰ることになるのだが…
一人暮らし再開~現在
中退し実家に帰った自分に対して、母の態度は何一つ変わってなかった。幼少期と全く同じ毒の強さで接してきて、うつだけでなく希死念慮はとても強くなっていく。父に頼ると不定期で心を抉られる。この家にいると本当に自殺してしまうと強く感じ、決死の想いで一人暮らしを再開する。
今でもこの選択が正しかったのかどうか分からない。というのも、これは言い換えてしまうと「親のすねかじり」であり、後ろめたさは今でも付きまとっているからだ。独り身になったうつ病患者は風呂に入る頻度も落ち、しまいには歯磨きの頻度もまばらになっていって何もかもが悪化したのだ。(うつの中期症状としては必然のような気もするのだが)
難点だったのは、「これだけ病弱であり医師もそれを全て認めていても、一人暮らしをしていると『一人暮らしができる程度には健常である』と判断されてしまうせいで、障害年金が降りない」という点である。
お金の問題はなんだかんだで、うつ病患者においては結局一番きついのだ。働きたくても働けないし、働けそうなメンタルの日でも打たれ弱く、しかも自分は肉体的な疾患(感覚過敏や腱鞘炎)がいくつもある。体力づけに散歩しようにもコリン性蕁麻疹があるので春過ぎから秋始めにしかできないのだが、真夏はこれまた体が弱いので熱中症のリスクを鑑みて家に籠るしか無くなる。
書いていて我ながら惨めではあるのだが、八方塞がりである。
1つ言えるのは、腱鞘炎が心因性だと発覚したことである。レントゲン・CT・MRI・針筋検査と、ありとあらゆる精密検査をしたのだが結局何も異常は無かった。
もう1つ、自分は免許を取れないというのを強く感じたのである。それは高校を中退し大学に入るまでの間に原付免許を取得した際、矯正後の視力が0.5まで見える必要があったのでメガネを新調しようとした時である。
当時裸眼での視力は0.1で、0.5を見るメガネをつけていると5分で頭痛目まい吐き気に見舞われてしまったのだ。これが視覚過敏の症状として語られているものが1つもない一方で、中学生辺りからずっとこれで悩まされていた。普通の人よりも「見えないメガネ」をかけざるを得ない疑問を解決するのは、4箇所ほど眼科に行って病気等が判明しなかった自分としては視覚過敏としか言えないのだ。
結局、免許を取るのは諦めた。
話の着地が見えなくなってきたので、過去語りは締めさせて頂く。
書き忘れたのだが、一人暮らし3年目で腱鞘炎に対する特効薬が「レキソタン(ブロマゼパム)」という精神安定剤であった。これはうつ病の薬を変えていた時に偶然発覚したのだが、それまで自分は腕の痛みに対して「ロキソニンを1日4回飲んで、それでもダメなら睡眠薬で無理やり寝る」といった強硬手段にしか出れなかった。ストレスと不眠症の併発で1日4~5時間睡眠の日が続き、睡眠薬を使った上で3時間しか寝れないこともざらにあった。
このことは今の医師に全て話した上でレキソタンを処方してもらっていて、薬の特性上どう考えてもこれは「心因性腱鞘炎」だと思ったのである。つまるところ心因性腱鞘炎は私の造語だ。
結局今でも自分は死にたいし、薬の副作用で体重が54→88kgにまでなった。視力は着々に悪化して、室内用に使っている弱いメガネでは0.1も見えない。外出用メガネは度数が強いのだが、免許の時と同じようにすぐ頭痛と吐き気が来るのでとてもかけたくはない。
コリン性蕁麻疹は再発。触覚過敏と心因性腱鞘炎で、この文章そのものをタイピングする気力や健康が薄いので何日にもかけて下書きを書いている。唯一マシなのが聴覚過敏だが、外出時になにかと色々な音を拾ってしまうので疲れやすくなっている。
身体障害者手帳すら降りそうなくらい弱っていると思うが、「降りない」と医師にキッパリと言われてしまった。
どれも薬でどうにかできない病気であり、それこそが「自分が『生まれつき』病弱であるが故に発症してしまったのだ」と強く実感するものなのだ。発症自体が高校や大学時代であっても、もし健康的な子供として生まれていたらきっと今のような病弱さに悩まされることはなかっただろう。
発症が「腕の使いすぎ」から来ている心因性腱鞘炎も、これは純粋な筋弛緩剤(レキソタンに含まれる筋弛緩作用が効くと思ったから)を出してもらったこともある。しかし全く効果がなかった。レキソタンはメンタルに訴えかける効果に意味があった。
しかしこれも日に日に耐性がつく。仮に転院でもしたら、今のように薬は出してもらえないだろう。
希望が見えない。