「暗闇」 #2000字のホラー 短編小説
1
人間は暗闇を恐れる。本能なのか、遺伝子からの警告なのか、とにかく人間は暗闇を恐れ、常に光を共にして生きてきた。
暗闇は全てを飲み込む。視界だけでなく、自らの心の光をも曇らせていく。普段は気が付かないような些細な陰りが、いつの間にか肥大して心の奥底から這い上がり、拡がっていくのを感じる。
そう、暗闇は心を蝕む恐れそのものだ。
そして、いま私は暗闇の中にいる。
いつからここにいるのか、何故この場所にいるのか、よくわからない。
いつもと変わらない日常、いつもと変わらない喧噪の中にいたはずだった。
気が付くと、全てが暗闇だった。
目を見開き、そして目を閉じる。全く同じ光景だ。一筋の光さえも望めない、完全なる闇。そのようなものがあるのだろうか。
私は今、冷たい床と思われる場所に腰を下ろしている。少し動いて周囲を手で探ってみたが、何もない。自身の額から脂汗が滲み出ていたのか、パタリ、パタリと冷ややかな音が聞こえる。これは現実だ。
2
どれくらい時間が経ったのだろうか、私はその場を動かずにただじっとしていた。
今の場所から離れてみようと試みたこともあるが、床がところどころ濡れていて、とても手探りで何かを探す気にはなれない。動きたくない。
空気は生暖かく、湿った感覚がある。風は感じなかった。
うずくまる私の中に、一つの光景が流れつつあった。
明るい陽射しが差し込むダイニングルーム、二人の人影が並んで料理をしている。忙しそうに手を動かす、一人は高校生程の年齢の少女、もう一人は髪を束ねた落ち着きのある女性。
そう、私には妻子がいた。その光景はもう幾度となく脳裏に浮かび、また消えていく映像だった。
「ぅ・・・ぅ・・・」
言葉にならない呻きが聞こえた。無意識に自分が発したものだと気付くのに時間がかかった。考えたくない。
暗い室内で口汚く罵り合う二人の男女。その中央で、少女が顔を歪ませて叫び、飛び出していく。
その歪んだ顔のままに走り去る姿が、娘を見る最後の光景だった。
幾度となく試した行動を私はまた繰り返した。自分のポケットを手当たり次第に探る。何もない。
娘に会える唯一の手段、それすらもこの暗闇の中では許されることがないのか。
脳裏に流れる映像を拭い去るかのように、私はまた暗闇に身を委ねた。
3
人間は暗闇を恐れる。それは、心の内に秘めた闇を嫌が上にも直視することになるからだろうか。
もう何十回、何百回ともあろう光景が流れては消え、現実なのか夢なのかすら区別がつかない程になっていた。
だが、ある種の心地良さもあった。限りなく自由の利かない世界。しかし、この中では自分自身の意識だけは限りなく自由だ。
自由とは何か、それは何物にも束縛されない、確固たる意識のことなのかもしれない。
―――私はこの場所で何かを見つけられるのか。
そのとき、世界の全てが覆った。
ガコン、ガコンと機械的な音が聞こえる。そして、遥か遠くの方で薄い光が差し込む。反響する金属音。ガチャリと音が聞こえ、白い何かが飛び込んできた。
一瞬、何が起きたのか理解できなかった。
その白いものが光だということに気付くのに、時間を要した。
私は、痛む瞼の力を極限まで振り絞り、焦点を合わせた。前方に四角に開いた白い空間。その中央にある、黒いシルエット。
眼が痛む。顔を伏せると、これまで見えなかった自分の体がそこにあった。手が震えている。床は微かに湿り気があり、ざらついていた。
周囲には、意外なことに様々な物が見えた。
棚。積まれた箱状の何か。缶のようなものが所狭しと並んでいる。
ここは―――何かの倉庫、いや冷蔵室のようにも見える。
そこまで考えて、私は光の中央に見えたシルエットを思い出した。あの影には見覚えがある。幾度となく脳裏に焼き付き、離れなかったものだ。見間違えはない。
私は前方に目を移した。
その人影は、ゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。
歩みは遅く、だが、重々しい。
その動きの中で、私は悟った。
そうか、やっとわかった。そうだったのか。
私は、何故かとても気が楽になった。安堵感とはまた違う、どこか希望を得るような感覚。
闇の中で感じた、ある種の開放感。自由。
私は、無意識に笑みを浮かべていた。
私の前に立つその人影に向かい、何故かとても安らぎの気持ちでいられた。
光の悪戯か、何かが反射して私の視界を遮った。
その人影の目の位置で何かが伝って流れるのが見えた気がした。一瞬だが。
おもむろに掲げるその人影の腕は、よく見ると小さく震えていた。
またしても光の悪戯か、その手に握られる何かが見えた。
私は理解した。
これでまた、あの自由な場所へ行ける。現在、過去、未来、全てに通じるあの自由な闇の中へ。
うっすらと笑みを浮かべ、安らぎの眼差しで見上げる男の上で、唇を震わせる女の腕から、その鋭利なものが振り下ろされた。
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