【読書ノート】『パアテル・セルギウス』
『パアテル・セルギウス』
トルストイ著
トルストイの短編小説で、森鴎外が訳したもの。
ステパン侯爵は、将来を嘱望されるイケメンの仕官で、努力家として常にトップを目指していた。しかし、ある事件をきっかけに世捨て人となり、パアテル・ゼルギウス(ゼルギウス神父)として出家する。出家後も賞賛を受けるが、その度に欲望に悩まされ、山に篭って修行を始める。
ある日、美しい女性が彼を誘惑し、ゼルギウスは誘惑に負けないために自分の指を切り落として、耐え忍んだ。その後は、献身的な祈りの生活を続ける中、彼の祈祷によって病人が治ると噂が広まる。ゼルギウスはその奇跡に喜びを見出し、調子に乗って人々を癒す。
しかし、ある熱心な信者から娘を救うよう頼まれ、その娘の美しさに興味を持ち、会ってみたくなる。山小屋に現れた娘はゼルギウスにキスをし、彼は肉欲に溺れてしまう。その結果、自身の罪を嘆き、放浪の旅に出る。
物語の主題は何か?
人間は、利己的な存在に過ぎないということ。完璧な人間はいないということなのだろう。
人生で受け取る様々な恵みというものは、すべて、神から与えられたものなので、自分の能力で勝ち得たものではないということ。
努力が大切だと教えられる社会の中にあって、これをどう受け取ったら良いのか、難しいところではあるのだけどね。
ひとは何のために生まれて来るのか?
自分の欲望もあるわけで、
いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
全てのことに感謝しなさい。
この言葉に従って日々歩むことが全てなのだろうなあと思わされる。
徹底した禁欲主義もちょっと違うのだけどね。
はたと、自分はどうだろうと振り返ってみれば、商売をして、取引が上手く行くことは、自分の努力や能力とは、あまり、関係ないことに気付かされる。運としか言いようがない場面によく直面する。
明治維新以降、日本の近代化の中で、真面目で努力家というのが、美徳とされた世界でキリスト教の教えは、衝撃的なものだったのだろうと思った。森鴎外訳というのもなかなか興味を惹かれた。