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実は誰もがアーティスト『「自分だけの答え」が見つかる13歳からのアート思考』#独りよがりレビュー
徳島県には、大塚国際美術館という世界の名画を、本物そっくりに陶板に焼き付けて展示した美術館があります。
ケチな私は、「せっかく来たんだから全部見ないと損」とばかりに、まるで花を渡る蝶やハチみたいに、せせこましく名画を次から次へと見ていくことになります。
美術館を後にするとき思います。
「それで、私は今日、何を見たんだっけ?」
『「自分だけの答え」が見つかる13歳からのアート指向』という本を読みました。
さて、ここで質問です。
いま、あなたは「絵を見ていた時間」と、その下の「解説文を読んでいた時間」、どちらのほうが長かったですか?
ギクッ!
もちろん、「モナリザ」も「最後の晩餐」も、モネの「睡蓮」も「システィーナ礼拝堂」も「ゲルニカ」も見ました。
だけど、本の指摘どおり、私も絵より解説文を読んで「ふーん」と思った覚えしかなくて、絵の細部の全く記憶は全然ないではありませんか。
私は、名画の一体どこを見ていたの!?
今思えば、「鑑賞」のためというよりも、作品情報と実物を照らし合わせる「確認作業」のために美術館に通っていたというようなものです。
図星。おっしゃるとおりです。
では、「アートを見ること」とは、どういうことなんだろう。
末永さんによると「アート=アート作品」ではないそうです。
アート作品とは、たとえて言うなら「表現の花」でしかなく、花を咲かせるには、「興味のタネ」を自分の中に見つけ、「探究の根」をじっくりと伸ばし、その結果が「表現の花」として咲かせる。そういう人がアーティストであり、生み出されるものがアートなのです。
14世紀のルネサンス期の画家は、主に「教会」や「お金持ち」によって雇われていました。そして、彼らに依頼された絵を描いていました。教会が注文するのは字の読めない民衆のための「宗教画」でした。そして、お金持ちは自分の「肖像画」を求めます。そういえば、大塚国際美術館でも、宗教画と肖像画がたくさんありました。そういうことだったんですね。
宗教画や肖像画には、「まるで生き写しであるかのような正確な表現」が求められました。
そして、時代が下って17世紀ごろになると、裕福な市民によって「分かりやすく身近な絵画」が求められるようになりますが、そこにも「現実感のある表現」が望まれました。
写実的に、本物そっくりに描くことが求められたこの時代は、画家たちが好きなように自分を表現する絵を描けない時代でもありました。
あるものの発明によって、この時代が大きく変わります。
カメラの発明です。1826年のことでした。
写実的にそっくりに表現する絵画は必要なくなったのです。
しかし、それは、奇しくもアートの意義を考えるきっかけとなり、アーティストは自分の好奇心に従って自己表現の探究を始め、これまでにない新しい表現を生み出していきました。
マティスは、妻の肖像で、彼女の鼻筋を緑色に描きました。
ピカソは、遠近法を無視した絵を描きました。
カンディンスキーは、物が描かれない抽象的な絵を描きました。
一見、「なぜこんなふうに描いたのか?」と首をかしげるようなアートが次々と発表されました。
しかし、これらの絵は、アーティストたちが、
①「自分だけのものの見方」で世界を見つめ、
②「自分なりの答え」を生み出し、
③それによって「新たな問い」を生み出す
ことで、生まれた「表現の花」だったんです。
末永さんは、このようにアーティストのように考えることが「アート思考」であり、私たちに必要なものだと言っています。
私も、美術館に行くのは好きです。
大塚国際美術館にも割とよく行きますし、これまでもいくつかの大きな美術展に足を運びました。
ですが、ただただ、「はー、これがあの有名な! こんな絵が描けるなんて天才はすごいなあ」とまるで神様でもあがめるように感嘆するばかり。アートを見て自分なりの感想や問いを持つことなんて、許されないと感じていました。
凡人の自分に、天才アーティストが生み出したものを理解することなどできないのだと、諦めの境地ですらありました。
凡人の私の「自分なりのものの見方」なんて、天才の生み出した作品の前では、ペラペラの薄っぺらい見方でしかないし、私が疑問に思うことなんて、賢い人がもうずっと前にすっかり解決しているものだし、私が導き出した答えなんて、表現するのも恥ずかしい、つまらないものだと思っていました。
いや、今も思っています。
だけど、末永さんはそれをきっぱりと否定するのです。
鑑賞者が作品とやりとりするときには、アーティストがどんなことを考えて作品をつくったかはまったく考慮されません。
それは、音楽を聴いたときに、歌詞やメロディーに自分の感情や記憶をのせるのと同じだそうです。
絵を見て何を感じてもいいし、何を見つけてもいい。アーティストの描いた意図など後回しに、自分の感じたことを言葉にしてみること、そこから「なぜそう思うのか」「どこにそう感じたのか」を深く深く考えて、自分なりの答えが見えたら、アート鑑賞は成功。
たった1枚の絵に、そこまで思考を重ねるとなると、私の今までのアート鑑賞は、あまりにも駆け足すぎました。美術館に展示された、たった1枚の絵すら味わうこともできずに、帰ってくるなんて、なんてもったいないことをしてきたのか!
また、末永さんは言います。
私は、ここでいうアーティストとは、「絵を描いている人」や「ものを作っている人」であるとはかぎらないと考えています。(中略)
なぜなら、「アートという枠組み」が消え失せても、アーティストが生み出す「表現の花」は、いかなる種類のものであってもかまわないからです。
「自分の興味・好奇心・疑問」を皮切りに、「自分のものの見方」で世界を見つめ、好奇心に従って探究を進めることで、「自分なりの答え」を生み出すことができれば、誰でもアーティストであるといえるのです。
極論すれば、なにも具体的な表現活動を行っていなくても、あなたはアーティストとして生きることができます。
何も具体的な表現活動を行っていなくても、日々、自分の好奇心のタネを大事にして、そこから探究の根をぐぐっと土の奥深くに根づかせていけば、それがアート思考であり、そうしている限り、誰でもアーティストであるということなんです。
人生においても、なぜ? と思ったことを探究しないまま、放置し続けてきたことでしょう。仕事も生活も、趣味も、文章を書くことも。そのくせ結果にばかり気を取られ、答えを求めたがっていました。
時々、自分が一体何に興味があって、何が好きで、何がしたいのか、分からなくなるときがあります。
これは本当に自分が好きなことなのか、周りの目を気にして、そうしているだけなのではないか。本当の感情は何なのか。
実は、私はまだアート思考の入り口にすら立っていないのかもしれません。
ですが、末永さんはこうも書いています。
そんなときでも、「自分を愛すること」を軸にしていれば、目の前の荒波に飲み込まれず、何回でも立ち直り、「表現の花」を咲かせることができるはずです。
心から満たされるためのたった1つの方法は「自分が愛すること」を見つけ出し、それを追い求め続けること。
そのためには、「常識」や「正解」にとらわれず、「自分の内側にある興味」をもとに、「自分のものの見方」で世界をとらえ、「自分なりの探究」をし続けることが欠かせません。
自分を愛することを軸に、世の中のいろんな事象に対して、常識や正解に照らし合わす必要もなく、自分がどんな感情や感想を抱くのか、じっと内側を見つめてみる。そこから、自分なりの考えを深めて、答えを見つける。
みんな、もっと自分の感覚に自信を持っていいのかもしれません。
今、こうして感染症がまん延し、1ヶ月、1週間先の未来も見えない時代になってしまいました。昨日正解だと思っていた方法が、明日には間違っていたと分かったり、予定通りに物事が運ばなくなりました。
感染を恐れて引きこもるのも、恐れつつ外へ出るのも、人それぞれの判断です。常識や正解も人それぞれ。
誰かに「右向け、右!」と決めてもらうほうが、楽でいいのですが、そうもいきません。結局、自分と対話し続けて答えを導き出し、自分で判断するしかないんです。
アートを鑑賞したり、音楽を聴いたり、本を読んだりして、常に自分に問いかけ、対話し続けて答えを出す訓練をし続けていることが、これからは必要なんだろうなと思います。だけど、それは意外と楽しい作業なのかもしれません。
読み終えると、世界が少し面白く見えてきました。
本には、具体的な思考の方法が書かれています。興味がある方は是非。
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