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空前の「沢村貞子」ブーム

今、空前の「沢村貞子」ブームが来ています。

もちろん、私だけですが。

1 沢村貞子さんとは?


1908年(明治41年)生まれの「昭和の名脇役」と呼ばれた女優。
1989年には女優を引退され、その後は文筆業をしながら余生をすごし、1996年、87歳で亡くなりました。
残念ながら、ご存命中に彼女の存在を知ることはできませんでした。

その沢村貞子さんが、今一番気になる人。

彼女は、数々のエッセイを残しています。

ブームだと騒いでいるくせに、まだ、この2冊しか手にできてませんが、どちらも、彼女の一本筋の通ったキリリとした言葉で、彼女の日常のあれこれが綴られています。
「わたしの台所」には、かの黒柳徹子さんが、沢村さんを「お母さん」と慕っていて、沢村さんが現場に手製の弁当を持っていくと、黒柳さんが「今日は何?」と寄ってきて、お相伴にあずかっていたというくだりがあります。
沢村さんはご主人と二人暮らしで、お子さんはいらっしゃいませんが、二十数年間も丁寧に献立日記を書き続ける几帳面さと強い信念の持ち主、徹子さんはそういうところを「お母さん」と慕っていたのかもしれませんね。

2 沢村さんとの出合い


彼女を知ったのは、過去に放送されたNHKの番組。
「365日の献立日記」

沢村さんは、60歳を過ぎたころから、その日作った料理を大学ノートに書き記すようになりました。始めたきっかけは、献立が重ならないように、肉料理、魚料理、和食、洋食、中華と変化をつけて、食事を楽しむためだったそうです。
二十数年間、大学ノート36冊に及ぶ膨大な献立日記の中から、現代の料理研究家の飯島奈美さんが、料理を再現するという番組でした。
沢村さんの献立日記には料理名しか書かれていないので、沢村さんのエッセイや当時の社会情勢などを考慮して、飯島さんが再現していきます。
5分ほどの小さな番組。
そこで、初めて「沢村貞子」という人を知りました。

魚すき、うなぎの茶漬け、炒り豆腐、青豆ごはん。
ご主人と自分のために作る毎日の料理。
時には、クッキーやあんみつ、大学芋など、甘いもの。
沢村さんの、淡々としていて、でも「食べる楽しみ」という小さな起伏がある暮らしに、心を奪われました。
レシピを真似して、人生で初めて「魚すき」を作ってみたりして。

3 沢村さんの本について

そして、最近やっと手にした沢村さんの本。
わたしの台所」は、彼女の料理や生活に関するエッセイ。
女優としての仕事をしながら、時間と気持ちをやりくりして家事や雑事をこなす様子は、現代の女性にも通じるものがあって、全く色あせません。
隙間時間で豆を煮たり、料理を作りながら台詞の稽古をしたり、時には、年下の演者の人と意見が食い違って困惑したりする、沢村さん。
自分も夜中にお菓子を作ったり、味噌汁を煮ながら、今日の仕事の段取りを考えたり、部下とのジェネレーションギャップに悩まされることもあったり。仕事は違えども共感する点が多くて、数十年の時間の超えて、沢村さんに、生き方を教わっているような気持ち。

そして、「わたしの献立日記」には、文字通り、沢村さんが書き続けてきた献立日記とエッセイが収録されています。春には、グリンピースの豆ごはん、夏はうなぎ、秋にはさんま、冬はブリと、素朴な季節の食材が食卓に並びます。
かと思えば、ある週は伊勢エビが連日登場していて、「頂き物でもあったのかな」と想像するのも面白いんです。
また、ある年から、お正月におせち料理が登場するようになります。エッセイによると、年を重ね、年末年始の旅行がつらくなり、自宅で年を越すようになったからだそう。
「わたしの献立日記」の文庫版の解説は、料理エッセイストの平松洋子さん。そして、沢村さんの献立日記のその後が、平松さんによって描かれ、最後にこう述べています。

献立日記は、沢村貞子にとって、人生をまっとうするための心棒であった。

「わたしの献立日記」解説 239p

365日、食べることはやめられません。食べることは生きることであり、人生とつながっているのだと、そして、身の丈に合った暮らしを大事にすることで生まれる強さがあることを、沢村さんの献立日記は教えてくれます。

いつどこで誰と何を食べたかの記録は、その人の人生の記録。

沢村さんのどっぷり影響されて、実は今月から献立日記を書き始めました。だいたい夫と二人、たまに息子と娘。

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RUMI
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