
「海外ツアー通訳添乗」?経験 in NYC
Noteで爆笑連続のエジプトの観光ツアーのどたばた奮戦記を読んで、ふと、自分も人生で1回だけちょっと似たような真似事をやったなあと思い出した。
エジプトに比べたら難易度超「低」だったが、今思い出すとなんとも懐かしく、自分のダジャレ術のビジネス活用の原点があったことが思い出されたので、記憶を掘り起こして綴ってみた。
爆笑エジプトPostの、Loloさんはこちら。爆笑して最後ホロリとくる:
*
カッコつけるわけではないが、僕のは遥かなるエジプトの紀元前のピラミッドではなくて、90年代の摩天楼のニューヨーク(しかしこの摩天楼という言葉は古めかしいな、死語か)。日本から計4組10人くらいの視察団を連れて、マンハッタンを1週間回った話。
ファミリーオフィスという、当時はあまり知られていなかった、投資会社の見聞リサーチということで、アメリカのファミリーオフィスや運用会社などを10箇所以上回った。
ファミリーオフィスというのは簡単に言うと、なにか家業で創業してそれが成功して巨大な企業グループに成長したようなケースで創業家が家業の経営から離れて経営はプロの経営者に委ねて、創業家(ファミリー)は投資主体として他の企業や投資プロジェクトに資金を投下する時のその活動主体。
当然、もともとの家業の会社の大株主として継続するケースも多々あるが、米国の場合、株式も売却して現金化してしまって他の投資が主になっているケースも多い。代々創業家の人間が家業を継いでいくという日本みたいなオールド・エコノミーとは発想が違うのかもしれない。
ファミリーオフィスとかいうと、ビル・ゲイツ財団みたいに、大富豪の相続対策とか慈善事業の主体みたいなイメージもあると思うが、面白いのはファミリーといえども個々の個人は法的には独立した一個人なので、それを束ねて資産運用するには投資顧問のようなライセンスが必要だったりする。兄弟でもそれぞれ別の個人だということ。なのでその資金を託されて一任されて運用する会社というセットアップが必要になる。投資運営以外にも、世代とともに絶対数が増えていく一族の意見調整の場だったりするようだが、それはさておき、投資や慈善事業をどう切り盛りしているかという点に注目。
まあ、技術的なことはさておき、そういう家業がもともとあって、その名残を残しながらダイナミックに投資主体として活動しているというところを尋ねてみようという1週間だった。
*
一例を挙げれば、世界的チェーンになったある米国のホテル業の会社。その創業メンバーの子孫は既に株式は売却していて、その資金を元にいくつかのビジネスに投資しつつ、慈善事業として設計の賞の資金提供とかしていた。
なかには、傘下に自らの小さな証券会社まで有して、発表されたM&Aの裁定専門の資産運用しているところもあった(当時は外部の証券会社の手数料は高かったので「内製化」する意味が十分あった)。建設業で成功してスポーツ球団のオーナー会社になっているところもあった(これは日本でもあるか)。あたかもファンド化して、担当の人を雇ってバタバタ毎日市場で運用しているところもあった。要はいろいろ。人生いろいろ、ファミリーオフィスいろいろ。
一行には英語堪能な人も多々いたが、念の為、通訳いれようということになり、その前年までNYに学生やって5年住んでいた当時まだ30才ちょっとの僕にそれをやれという。たまにはそれもいいかと快諾したが、通訳とかやるとなんだか自然に引率の添乗員的動きも期待されて、一応我が本業は株のアナリストだったのだが、悪乗りしてバスガイドの真似のようなことまでやらせてもらった。プロの添乗員と比べたらままごとのようなものであったが。
一行を15人くらい乗れるマイクロバスで市内いろいろと移動するということで、その引率と、バスから見える観光名所の案内をやることからツアーが始まった。「ハイみなさん、いま横を通ったのがグランドセントラル駅で、まあ東京駅みたいなもんですが、中にあるレストランの生牡蠣は美味しいですよ」とか勝手な解説をしたりしていた。みんな時差で眠そうで、移動中は寝ている人が多かったが。
*
さて、視察先でのミーティングのほうは、こちらは訓練されたプロの通訳ではないし、逆に話の内容はけっこう土地勘のある内容だったので、会合では一言一言の正確な逐語訳ということではなくて、「要するにここってこういうことをやってるとこなんです」とか、結構はしょって通訳していた。
とあるパソコン販売で成功して財をなして、その後損保会社を買収して運営しているというところだったかが、そのオフィスでランチをホストしてくれた。
そこのファミリーの40代のおっちゃんがコメディアンみたいなアクの強い人で、ホスト側として司会進行してくれるのはいいのだが、たぶんそのファミリーオフィスでも道化師みたいな存在なのか、こちらが訳をしていたら、いろいろと通訳のこっちをいじってくる。
簡単に「これは簡単にいうとxxです」とか抄訳したら、おっちゃんは「あれ?あんだけたくさん説明したのに日本語だとそんだけ?日本語ってそういう言語?短すぎない?」と言って、その場の笑いをとる。「ズルしないでちゃんと訳してくれよな。腹減ってるのはわかるけど」とか。
日本語訳のなかに横文字そのものがはいっているのを聞きつけると、「なんだ訳やってないな?マーケット、リスク、エムアンドエイ、アービトラージ、スプレッド。そのまま英語言うならオレでもできるよ(笑)」とか。こちらが合間に目の前のランチのサンドウィッチを一口かじると、「早く飲み込んで、通訳通訳!」とおっちゃんが急かすと、アメリカ人たちは明るく笑い、日本人もニヤっとする。漫才仕立てのようなランチョン。小太りで若禿のジューイッシュのやたら明るいオッチャンであった。
今思うととても残念だったのは、あのときはツッコミやられっぱなしで、ちょっと気の利いたセリフとかでやり返せなかったこと。まあ、芸人がステージで切磋琢磨されるのといっしょで、ビジネスマンも会議やらプリゼンで対応力がだんだん鍛えられていくのでしょうけれど、タイミングよく気の利いたことを言う瞬発力とか難しいもんです。
*
ある、医者が社長のバイオテクの投資会社では、今でも覚えている結構おもしろい話が聞けた。これ、今から20年以上前の90年代後半の話。
バイオ医療の分野では2つ大事な潮流がある。遺伝子創薬とドラッグ・デリバリー。後者は別に麻薬の売人による配達じゃなくて、いかに薬を体内の患部へと体の免疫や酸をくぐりぬけて届けるかという話。
遺伝子の分析でいろいろなことがわかってきていて、疾病に効きそうな薬やワクチンを従来の創薬とくらべると短期で作れる可能性がある。理論的なところはかなりわかっていて、あとはどうやって人体で臨床試験していくかという話だと。
また、ドラッグ・デリバリーも、この薬の治療法でいけば患部が治るとわかっていることは多々あるが、人間の体には強い酸だったり、免疫機能があってその薬を患部まで届けられない。これを脂質でくるんでやったりとの、デリバリーの技術の研究が進んできている。どちらも、すでに進行中の革新で、10年後にはもっと実用化が進んでいるだろう。というような話だった。
結構、通訳的には専門用語、医学のラテン語っぽい言葉が多くてきつかったが、そういうのは聞けば、体のここらへんとか、ここの病気のこととか説明してくれたのでどうにか切り抜けた。
2022年の今、思う。昨年来のmRNAのワクチンって、この2つの技術の集大成じゃね?と。
中国がいち早くオンライン公開したウイルスのゲノム情報からワクチンの設計に着手、たしかモデルナが数日、ビオンテックが2週間くらいでmRNAの設計完了、それから3ヶ月くらい後には臨床試験実施、実用化へとフルスピードで進んだ。遺伝子エンジニアリングの総動員。
そして、壊れやすいmRNAは、大切に、ナノレベルの構造だったかの脂質でくるんで体内へ。脂質くん、いつも脂肪は太ると忌み嫌われているが、「運び屋」として大活躍であったらしい。以上、かなりいい加減な理解なので、正確な科学的理解はくれぐれも別のソースでご確認ください。
*
そんな訪問を、ランチも含めて日に5つくらいこなしては、夕食は訪問御一行でNY名物のステーキ屋とかで美味いものを食べた。どこでなにを食べたかの記憶がほとんど無くなってしまっているが、ミッドタウンのステーキ屋は美味かったなあ。その後ばか高くなってしまったナパのオーパスワンというワインがまだそんなには高くない値段で飲めたという記憶が残っているが。
ひとつ自画自賛というかある種の自慢話のような思い出がある。おれが若い頃はなあ、こうやってしたもんだ、というようなおやじの話として聞いていてただければ。
そんな1週間の日々の毎夜、深夜、僕はA4というかホテルの部屋にあったレターサイズ1枚に、その日のアポのなぐり書きのような通訳メモから、「会合の要約」を簡単に手書きでまとめた。作業時間20分くらいで。そしてその下の余白に、ふざけてると思われてしまうリスクは承知で、「今日のダジャレ」というのを毎日1つ載せた。その日の会合にちなんだものを。
もう、何を書いたか記憶からかなり剥落してしまっているが、いくつか覚えているのをご紹介:
「伊良部選手には、いらぶ(選ぶ)権利はなかったんだ、と球団オーナー談」(ある野球球団オーナーの夕食会あった日。当時伊良部は日本の球団とどこかとのドラフトを蹴って?来たかったヤンキースに入団したばかり)
「ズワイグ社長の好物は、ずわい蟹だそうだ」(マーティ・ズワイグさんというウォール街では著名な企業調査ベースの株の運用者とのアポの日)
「ロバートソンだけに、そん(損)はさせませんよ」(ジュリアン・ロバートソンという伝説のファンド運用者と会った日)
そんなメモをささっと手書きすると、深夜、ホテルのフロントでコピーをとって、(添乗員として?)把握していた一行の各部屋をひとつひとつ訪ねてはドアの下からすっと投げ込んでおいた。Eメールがまだ普及してなかった時代のマニュアルな対応。そして配り終えて午前2時とかに就寝。あれ、やれと言われたわけでもなく、自分でもなぜやろうと思ったのか、そして、なぜダジャレをそこに記したのか、我ながら今となってはまったく謎であるが、あの出張を思い出すとそのメモ書きの作業とくにダジャレを書いたことを、懐かしく思い出す。
*
参加者からは案外好評で、「出張報告を後でかかないといけないので、滝居さんのメモ、あれとても助かりますよ」とか、「朝起きて読んだら、どっと脱力しました」とか、笑いながらコメントをくれた。
一行のなかに、物静かな当時30代後半のある企業の創業家の人物がいて、その方は後にその日本を代表する製造業の大企業の社長となるのだが、食事のときに、黒い縁の眼鏡の奥の目をいたずらっぽくニヤッとさせて僕に言う。
「ずわい蟹がね、食べたくなりましたよ」
*
そんな出張もつつがなく終わり、たしか、一行を見送りした後に、スタッフみんなとブロードウェイでミュージカル「ミス・サイゴン」を見た。
ミュージカルの後、同僚のアメリカ人のMが言う。
「ラストシーンでさ、主人公がかわいそうでさ、まわりでもすすり泣きが聞こえてさ、こっちも感動して目頭を押さえようとしたら、ガーガーといういびきが聞こえてくるんだよ。なんだよ、誰がこんないいシーンで寝ているんだ!とそのいびきのほうをみたら、、、おまえだったよ(笑)」
我ながら1週間張り切りすぎて疲労困憊の、えせ添乗員の経験でした。
この経験からの教訓?
あるとしたら、こんな感じか。
ビジネスマンも臨機応変に、視察では添乗員・通訳くらい厭わずやる、会議で漫才を挑まれたら受けて立つくらいの日頃のボケ・ツッコミの訓練を怠らず、ダジャレは人をほっこりさせる潤滑油ゆえビジネス・シーンでも効果的に使うべし。
Note、おもしろいなあと思うのは、人のを読んでると、とくに体験談は、ああそういうのあったなあとこちらの過去を思い起こさせてくれること。■