松本人志信者が『庵野秀明+松本人志 対談』を見て感じた、お笑いの神の負い目。
この対談自体が1990年代~2021年までの“お笑い”と“アニメ”という日本サブカル界のトップが初顔合わせしたモノであり、興味深いと感じた人が多くいたと思われる。
今のTVのお笑い界を牽引しているのは間違いなくダウンタウンとその流れを汲む吉本の芸人達だし、庵野秀明のアニメ界・映画界における影響力の大きさは、今後ますます肥大化の一途を辿ると思われる。
そのような二人のお笑い哲学とアニメ映画哲学という二つの高次元の熱量が火花を散らすような対談を期待したのだが・・・案の定、毒にも薬にもならないような対談になってしまった。。。
お互いをけん制しあったような探り探りの会話が妙にもどかしく、どちらかと言うと松本人志がホスト役に回り、庵野秀明を持ち上げるような会話に終始したような印象だった。
これは、もちろんシン・エヴァのアマプラ配信が始まった事による宣伝的な内容だからだし、バラエティ番組でホスト役をやっている松本人志の方がこういう事に慣れており、年齢的にも松本の方が年下という事もあり庵野秀明を立てるような内容になってしまった事は仕方がないとは思う。
ただやはり一番残念だなと思ったのが、対談のテーマが終始“映画論”になってしまった事だ。このテーマでは松本人志の出番はないし、勝ち目がないのは自明の理なのだ。
松本人志は『大日本人』『さや侍』『シンボル』『R100』と、シュールな長編コント映画を何本か撮っており、いわゆる映画通や評論家からは酷評を浴び続けている。
特に2013年の『R100』に関しては、かなり低い評価となっており、そのあたりで映画監督業から手を引いているような印象だ。
松本人志自身も言っているが、松本人志の映画は、映画という表現を利用したお笑いの表現であり、映画好きの人々の物差しで測ると途端にチープで扱いにくいものになってしまう。
ハリウッドのコメディ映画のような誰でも楽しく見れるようなモノではなく、一部のコアなお笑いファンの為の映像作品なのだが、その部分をしっかり評価される事は少なく、あくまで映画の完成度としての低さをあげつらわれている場合が多い。
古くからの松本人志ファンからすると、ビデオ作品の『頭頭』や、ごっつええかんじの『トカゲのおっさん』、VHS作品のビジュアルバムのシュールなコント映像を見ると、松本の映画は独自世界の延長線上なのだとわかるが、映画となると途端に敷居があがるようでユーザーの目も厳しくなる。
今回の対談の最後で松本人志が「心地よい敗北感」云々とは言っているが、映画というベクトルでは松本は庵野の足元にも及ばない、全く別次元の表現者なので、大敗北以外の何物でもないし、それは本人が一番良く分かっていると思う。そのあたりの引け目もあり、前述のような、松本が庵野を立てすぎるような対談になってしまった感が否めない。
お互い60歳近くなり、若い頃のギラギラとした牙のようなモノを引っ込めた好々爺の体をなしてきているし、自身らの影響力もわかっているので、あまり不用意な事は言えないと守りに入った感もある。
個人的には、アニメ論・お笑い論を超えて、面白い事の真髄のような部分を熱く語り合ってもらうことを期待してしまった(映像での対談ではなく紙面での対談だったらもうちょっとマシだったのかもしれない・・)
あと、多くの映画ファン・松本人志ファン・アニメファンが一番気になったであろう部分は、松本人志の著書『シネマ坊主2』にて、松本は宮崎駿の『千と千尋の神隠し』を酷評しており「この映画の良さは全くわからない」「宮崎駿と自身は全く相いれない違うベクトルの人間」のような事を書いていた点だ。今、手元に本が無いので詳細は不明だが「観客を舐めている」とまで言っていた様だ。※出典元
当然、宮崎駿は庵野秀明の師匠のような存在だし、その人をボロカスに言った松本の事を、対談前に知っていたのか、まったく知らなかったのか定かではない。
アニメーションとしての完成度や、クオリティ、映画として世間で大ヒットした要因などすべて吹っ飛ばして『千と千尋の神隠し』にノーを叩きつけた当時の尖った感性の松本人志は、今回の対談には居なかったのだ。
実は庵野自身も『千と千尋の神隠し』を駄作と思っており、裏で意気投合していた、という事もありえなくはないが、やはり同じアニメーターとしての宮崎駿の代表作、ましてや師の大ヒット作に対して酷評をする事はしないと思うので、そのあたりのテーマには是非突っ込んでほしかった(炎上するのであえてトークテーマからは外した?)
また、庵野秀明自身が松本人志の映画作品を見たことがあるのか、またどのように評価しているのかもきちんと聞いて欲しかった。
アニメ・映画界の天上人である庵野からの批評を浴びて、それに対して自身のお笑い論・お笑い哲学から回答をする松本人志の姿を期待したのだが、そこをあえて回避したのであれば、それこそ、視聴者を舐めていると思う。
若かりし日の松本人志には“お笑いこそが全ての表現の頂点”のような気概があった。独善的と揶揄される部分もあるが、そのお笑い至上論に多くの松本信者が熱狂したのも事実だ。
松本人志は1994年伝説の1万円コントライブ『寸止め海峡(仮題)』の映像作品の最後のおいて、以下のような言葉を残している。
この言葉は、松本人志のお笑い哲学の脊髄のようになっており、2021年の現在に至るまで彼のお笑い表現の芯になり続けている価値観だと思う。
その気概があるならば、アニメ・映画界の神的存在の庵野秀明に対して、お笑いの神を名乗った男が、取るべき姿勢ではなかったように思われる(人間を作った神に対して、笑いの創造主たる自身は神以上だと自負をした点において)
それもこれも、自身の映画への酷評と、映画監督としての庵野への劣等感が出てしまった結果なのだとは思われるが、古くからの松本人志信者が期待したサブカル界の神対談のようなモノでは到底なく、今回の対談にがっかりしてしまったのだ。
一つだけ面白かった視点は、観客の理解に対しての二人の認識の違いだ。松本はわからない人間に腹を立てる様子があったが、庵野は受け取り方は自由だと言っていた。そのあたりが、映画監督としての二人の光と影を顕していたと思う。
もしも、次回の対談が実現したとしたら(しないだろうが)映画論は取っ払って、お笑い論とオタク論での対決をするか、とことん映画論で突きすすみその中でのお笑い表現と庵野流のオタク論の対決を見てみたいと思う次第だ。