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私の冷静と情熱の間

長い休みには、実家に帰らなかった日はない。

後何回、この季節を一緒に過ごせるのかっていうことを、ふとすごく考えこんだことがあった。だから、帰らなかった時がない。

あんなにうっとおしかったことも、大きく見えていたことも、辛かったことも、楽しかったことも、いろんなことが、全部なくなる日が来るって気づかないでいたくない。

姪っ子をお風呂に入れて、寝かしつけていると、これからたくさんの希望を抱えてるその体温で、ふとこのくらいの時期の自分はどうだったのか、わーっと思い返してみた。

というより、心が反応して波のように押し寄せてきた。

私を育ててくれた人たちは、私にどんな風に育って欲しかったんだろう。

どんな思いで育てたんだろう。

日々の闘いばかりでそんなこともしばらく忘れてしまう。

のびのびと幸せそうなこの子もこれから、いろんなことに傷つけられ、葛藤して、否定され、それでも自分を肯定しながら生きていかなきゃいけないんだという辛さを重ねたら心が痛くなった。

強くなることに必死すぎて、いろんな人の思いを捨ててきた気がする。

でもそれは悪いことではないし、そうするしかないこともある。

言い訳ではなくて、それが正解か不正解かはないと思う。

ただただ、私を育ててくれた人たちもこんな気持ちで私に絵本を読みきかせ、辛い思いもして、いろんな希望を託してきてくれたんだと思うと涙が止まらなかった。

ありがとうなのか、ごめんなさいなのか

どちらの言葉もふさわしくない気がした。

なぜなら、私や私を守って味方でいてくれる人だけがこの世に影響を与えているわけではないから。

誰かや何かに傷ついたり、悪者にもなりながら、大人と子供の境界線をいつも行ったり来たりしてる。

そんな葛藤の責めどころを探すのだとしたら、もう生きてる人間なんかが対象にならない。

どんなに憎い相手も、どんなに傷つけられた人でも、私の悪魔みたいな部分を引き出した人でさえも。

そんなぶつけようのない切なさがやるせない気持ちになった。

誰かが望むようには生きられない。

この人の望むように生きたいと思っても世界はそうは絶対させてくれない。

変化は何よりも不変であることが改めて思い知らされる。

記憶が都合よく書き換えられるものなら、もう少し機能が良ければよかった。

体の痛みは癒えても、心の痛みは何度も何度も蓄積される。

強くなっても慣れない。

平穏な日常に時に津波のように襲う。

生きる気力がなんだったのか、思い出せないくらいに。

私が誰かを大事にするような気持ちと一緒に私も同じくらい大事にされてると思うと粗末にはできずに全てに意味があるような気がしてしまう。

それぞれで泣いた数も知らない。知るすべもない。

だから、自分で強くなるしない、強くなってもらうしかない。

誰もわかってくれなくても、みないふりして一人で泣けばいい。

みないふりして進むしかないのもわかってる。

ずっと塞ぎ込んで見えていなかった景色が、やけに薬のように体に染み込んでいく日もある。

全部のパズルがそろう日が来る。

変化は自分のタイミングだけでするものとは限らない。

周りがそうさせて変わらざるを得なくなる時や捨てなければいけない時が必ず来る。

ってことは何も変化してない日はない。

いつか何もかも迷いなく捨てれる人になりたい、思い出も過去も未来も。


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