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東京での創業の地は東池袋<その1>森田ビル

2004年5月6日に創業した弊社ですが、もともとは大阪に本社があり、たこ焼き屋と介護事業をしておりましたので東京で事業を始める際に事務所が必要になりました。うちの取締役の小川君がヤフー不動産で見つけた事務所が東池袋にある森田ビルという場所。

木造7畳、家賃が3万5千円。内見してビルじゃねーじゃんか!とはならず、

みんなでここがいいね!となりました。すぐに契約だ!となって、もう一人の取締役の小池君と東武東上線ひばりが丘駅に契約に向かいました。電車でちょっと夢なんかを語りながらのんびりと言ったことを覚えています。当時の会社運営はまだまだ給料が出せるところまではいけておらず、「しばらくは苦労かけるねぇ」なんて話してたことを思い出します。

さて、そんな森田ビルですが、実は半年くらい出てしまいます。

下の階がうなぎ屋さんで、悩ましいくらい香ばしい香りを毎日させてくれますし、トイレは共同で、和式でしたので、腰の弱いメンバーがトイレ難民になってしまったり、エアコンが全く効かず、ゴールデンウイークにはもう暑くて耐えられないといった始末。更に机が足りず押入れを机にしたり、謎のノック音がしたりと、おいおいおい。。。思えば不思議な環境だったのかもしれませんが、非常に濃ゆい半年になりました。

昨今、オフィスはクリーンで働きやすくなんてことが言われますし、僕らも考えるようになりましたが、まぁ、あの当時はそんなことも考える余裕すらなく、という感じでした。僕は森田ビルからホームレス社長開始でしたので、非常に根性を試された感じでした。

臥薪嘗胆だと?

臥薪嘗胆という故事成語があります。

史記によると、呉王の闔閭の後継者の夫差が復讐戦を成し遂げるために薪の上で寝ることでその決意と屈辱を忘れないようにした。復讐戦を成し遂げた夫差さんは越王勾践さんの軍を破り勾践さん降伏するも恨みを忘れないために毎日、苦い肝をなめて復讐を忘れず20年後に復讐を遂げるということからできた言葉です、、、が。

私からすると恨み、屈辱などは全く感じてはないものの、鰻を自分の金で食う財産もなく、匂いだけかがされるというこの状況のみが「くっそー」という感じで、いつか鰻を自分の金で食べるぞー!なんて思っていたら、店の閉店が先に決まってしまって、なけなしのへそくりでみんなで鰻丼を食べて、残高34円という非常に貧乏な時代もこの時でして、自分の力の差を鰻の香りから学ばせていただきました。

とは言え、わざとこんな感じで書いていますが、楽しかったのは間違いなく、役員4名で語り明かした日々は人生の宝物です。

森田ビルララバイ。という感じで謎の音が響く、座敷わらしさんが住んでいるのかな?というような大事なオフィスでした。

その次のオフィスは歩いて3分来の場所にある、YMTハイム。この物件を見出すにあたり忘れてはならないのが豊川のおっちゃんのこと。

この話は次回ということで。。。つづく。



 



創業15周年を迎えましたので一区切りという事で昔語りをさせて頂きます。宜しければご覧くださいね。