映画「ルックバック」感想。努力の喪失と、真の理解者
藤本タツキ原作の「ルックバック」の映画化。
早速先週見てきた。
この感想は、同じようにルックバックが好きな人に向けて、
共有したい感動を書いてみる。※ネタバレがあります。
自分が一番好きなシーンは、前半の藤野が京本と出会うシーン。
主人公の藤野は漫画のセンスがずば抜けてる。
そつない絵とともに学級新聞に連載し続ける。
でも面白いのは、
藤野の圧倒的なセンスのシニカルなストーリーは同級生にはあまり響かず、
「絵うめー」「すげー」程度で受け止められてるところ。
まあ、小学生なんてそんなもんよね。
でも実は、同級生の中に、唯一?その漫画の類稀な構成に気づいてた人がいた。
引きこもりの京本だ。
学校に来ない代わりに圧倒的な練習量と、絵のセンスで
10歳そこらとは思えない画力を発揮し、学級新聞で一気に話題を掻っ攫った。
”絵のうまさ”が至極命題の学級新聞にとって
京本は藤野に優っていた。
(ストーリーとか、そういうのわかんない。写真見たいな絵がスゲーから!)
「藤野の絵ってフツーだなあ!」
そう、評された藤野のプライドの傷つき方は尋常じゃない。
ただ、藤野は一度負けただけであっさり諦める人じゃなかった。
藤野は小学校6年生になるまでの2年間、春も夏も秋も冬も、
絵の練習をしまくった。
その後ろ姿には、圧倒されるものがある。
僕は飽き性で、何かとすぐに辞めちゃう癖がある。
何かを成し遂げた人は、友達であれなんであれ、
常に尊敬と嫉妬の眼差しをむけていた。
努力を続けられる人の強さは、人類そのものの強さであるように感じていた。
藤野の後ろ姿は、僕が嫉妬し、尊敬し続けていたものの全てを表していた。
でも、いくら練習しても藤野は京本に追っつかない。
引きこって家でずっと絵を描いている京本に比べ、学校に通い続けながら
絵を描いている藤野は不利だ。
家族や友達からも、絵を描いてばかりいないで、と言われるようになる。
そんなこと言われても、一ミリたりとも気にしていなかった藤野だけど
友達から決定的な一言を言われる。
「気持ち悪がれちゃうよ」
藤野はその一言で、気づいてしまう。
自分の人生は絵だけじゃないと。
人気者で、運動もできる藤野には、京本と違って他にも楽しいことがある。
絵ばかり描いていても仕方ないんだよ。
と、気づいてしまう。
簡単に捨ててしまえるものだったんだ。漫画を描くことなんて。
小学校6年の夏、藤野は漫画を描くのを辞めてしまう。
人が努力をやめてしまう時は、
そのことに価値を感じなくなった時だと僕は常々思う。
自分にとって楽しいと感じられなくなった時、目標を失った時
そういう時に努力をやめてしまう。
藤野はこうして、今まで続けた努力をサッと捨ててしまった。
この気持ちもよくわかる。
自分が負けたくなくて、一所懸命に努力したものが、
実はそんな価値なかったんだ。という喪失。
静かな失望。
小学校の卒業式の日、
藤野は、先生から京本に卒業証書を届けるように頼まれる。
イヤイヤながら、藤野は京本に卒業証書を届ける。
そして、京本に出会う。
京本は、藤野に、
藤野の漫画への感動を伝える。
”絵のうまさ”じゃない、すげー、じゃない。
そのセンスへの純粋な感動を伝えられる。
藤野の漫画のセンスが、初めて評価された瞬間だった。
それも、”絵のうまさ”で圧倒的に優っている京本から。
絵の敗北、努力の喪失、失望を感じていた藤野。
自分が負けた、もうどうでもいいやと思っていた人が、
自分の漫画のいちばんの理解者であることを知ったのだ。
この喜びは、とても筆舌に尽くし難い。
藤野の帰り道での様子は、
彼女の失われた執念と、努力、こだわり、センス
その全てが復活し、太陽の如く灼熱の炎を燃やし始めているようだった。
この努力の喪失と、復活。この様子が圧倒的なリアリティで描かれているところが
僕がこの物語の好きなところである。
いくら売上部数が上がったとか、いいねがついたとか
実績なら今どきなんとでも言いようがある。
でも、自分がやっていることを本当の意味で、
自分の意味で理解してくれる人がいること。
これが一番嬉しいことなんじゃないか、って考えるようになった。