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学校内の臨床教育について

こんにちは、理学療法士のおかむーです。

今回は、「学校内の臨床教育について」を、お話したいと思います。

ただ、これは私見ですので参考までに。

臨床教育は卒後教育のように、臨床で働き出してからのイメージですが、学校内でも可能と考えます。

学校の臨床教育というと、まず、思い浮かぶのは臨床実習やOSCEです。

そりゃ、臨床に出て、社会的営みの中で仕事を円滑に進めるとした総合的な教育でしたら、臨床実習が最も効果が高いかと。

しかし、臨床教育を分割して、セラピストが患者さんに対して結果を出すと、狭義で見た場合は、学校内でも十分に役割を果たせます。

そこで、私が実践してきた教育について、お伝えします。



Ⅰ. 1年次

noteの「リアル臨床」の実践症例でもわかるように、多くは動作から問題点を抽出しています。

医学的知識を踏まえて動作を分析するのは、PTの持ち味の一つと考えますし、それを重要視しています。

そこで、まず、姿勢・動作の肢位と重心位置、それに作用している筋がわからなければ先に進めません。

それを1年次にある程度、出来るようにします。

でも、高校を卒業した学生には難しく、反発もかいました。

学生達からの授業アンケートでも散々にたたかれます。

しかし、学生達はまだ経験が無く、こちらは経験してきた側です。

授業アンケートによる学生からの指摘で、改善の余地があるものは改善しながら土台は崩さずに進めて行きました。

ここで、noteの‘リアル臨床’の経過をQ&Aにしているのも学生の指摘からです。

文章の羅列でわかりにくいとのことで、実際の授業でのやりとりを文章化すれば読みやすいだろうと考えた結果です。

話しは戻り、授業内容に関して、一部の学生には受け入れられましたが、大半は、「難しい」、「とにかく大変」、中には「きらいな科目」と言われました。

‘きらい’の理由は、わからないからかと。

ですので、繰り返し実施しながら、レベルを徐々に上げていきました。

真剣に取り組んでもらう原動力は、毎回の試験です。

学生達は、今までの学校教育で試験により評価されています。

試験に対する反応は敏感です。

また、1年次で大変に感じるのは、すべてが初めての経験で、それに加えて医学用語も覚えなければならないからです。

ダブルパンチです。

ブチブチ言われながらも、ついて来てくれて、2年に上がります。

まあ、ついて来れなければ落第するので当然ですが。

でも、こちらも鬼ではないので、学生達が背伸びをして届ける範囲にしてましたし、わからない学生は、わかる学生に教わるなど、協力し合ってました。

この1年次から‘考える’ことを養っていきました。

Ⅱ. 2年次

2年次になると、本格的に狭義の‘臨床教育’に入って行きます。

内容もグンと難しくなります。

丁度、中学英語と高校英語、あるいは数学の違いかと。

しかし、1年次とは違い臨床に関わる内容となり、興味を示したり、面白いと言ってくれる学生が増えてきます。

そこでも、真剣に取り組んでもらうアイテムとして試験の実施はかかせません。

数回の授業で、1つの内容が終わるごとに試験を実施しました。

試験内容は、noteの‘リアル臨床’で示すような実践例を土台に作成しました。

当時の試験時間は90分でしたが、ギリギリまで粘る学生が多かったです。

試験内容は、情報やそれまでの回答からの文脈を踏まえて考えさせるものでした。

狙いは、真剣に集中して取り組んでいる試験中に、いやと言うほど考えさせ、臨床的思考の脳細胞を活性化させることでした。

当然、そんな臨床的な試験を渡されても、経験がない学生がスッと出来るわけがありません。

そこで、過去の問題、解答、それについての解説を事前に渡しました。

試験後、学生達はどっと疲れた様子でしたが、私は心の中で「しめしめ、脳の中で臨床的な思考が養われている!」と思っていました。

また、「あの症例だけどさ、~じゃなかった。」などの学生達のひそひそ話を聞くと、これまた、「しめしめ」と思いました。

試験後、学生達は自身が何点だったか教えてくれと来ます。

あれだけ頑張ったのですから、それは気になるでしょう。

でも、次回の授業で配布するからと言って教えませんでした。

そして、次の週に、みな、‘そえわそわ’した状況下で試験を返却します。

「わー!?」とした叫び声の中、返却用紙を一人で見て、これまでの授業資料を開く学生や、友人同士で話し合う学生がいます。

その行動は、こちらが指示したわけでありません。

自分からの行動も‘臨床力’を養う、大きな力になります。

ですので、しばらくそのままにしてました。

中には、教壇に座っている私に質問に来る学生もいます。

しかし、「後で解説するから」と追い返します。

‘ざわざわ’が落ち着いたところで、試験の解説を行ないます。

大半が解説が待ち遠しく、うずうずしてます。

なので、耳を傾けて聞いてくれました。

そこで、学生が「そっかー」と腑に落ち、そこでも私は「しめしめ」と思います。

Ⅲ. 3年次

いよいよ3年です。

4年次は、国家試験、実習、就活とあり、3年次が授業を受ける最終学年になります。

1年次に土台、2年次にペーパーで‘臨床’に触れました。

しかし、実際の臨床では生身の人を相手にします。

ペーパーのような2次元ではなく、動きもあります。

そこで、映像と実践で実施しました。

実践とは、学生の中で運動や動作、スポーツ、痛み、見た目を気にしている人を対象に実施します。

実践と言っても学生が出来るわけもなく、私がアドバイスしながら進めます。

そこでわかったことは、多くの学生が痛み等の問題を抱えていることです。

ですので、その授業を始めてからは、個別で見て欲しいと来る学生がそこそこいました。

実施した内容と行きついた流れは、私の方でまとめ、翌週に学生達に配布して振り返らせます。

ここで、3年次になると評価実習があり、1ヶ月近く実習地に通います。

その実習が終了した頃から学生達の私への評価が変わり、1年次の時のようなブーイングは起きなくなりました。

そんな学生達が卒業後、しばらくして会い、「あの時の授業が今の自分の土台になっています。感謝してます。」と言われることがあります。

それ以上の褒め言葉はなく、「やってて良かった!」と思う瞬間です。

ちなみに、3年次の試験は今までの集大成で、映像の症例について、自身がセラピストとしての考えをまとめさせるものです。

学生達には、‘白紙のテスト’と言われていました。

こちらが評価するポイントは、症例の状態把握、動作観察の信頼性、それに適した評価項目、観察から評価項目に至るつながりのある流れでした。

Ⅳ. 最後に

1年~3年次まで共通していたのは、‘考えること’でした。

私が学生に求める‘考えること’とは、知識を覚えるのは当然で、その知識を如何に症例に役立たせるかです。

要は、知識を‘知識’としてではなく、‘道具’として使いこなす力をつけることです。

道具として使いこなせることで、初めて‘知識の必要性’を感じ取り、知識が自分のアイテムとして活用できます。

育てるのは学者ではなく、臨床家です。

ただ、学生からしたら「鬼」のような存在だったかも知れません。

事実、怖がられていました。

それを学生に尋ねると、「先生が怖いのではなく、テストが怖い。」と言われました。

そうさせたのは、臨床時代、実習指導者として学生を指導していた頃に遡ります。

プロフィールでも述べてたように、4年生大学~専門学校、成績優秀者からそうでない学生まで、一貫して‘臨床で考えること’ができなかったからです。


今と違い、当時の学業は覚える事が主体で、要は、記憶力が良い人、コツコツ勉強する人、要領が良い人が成績優秀者になりました。

それは、‘臨床での考える力’とは違います。

なので、成績が優秀な学生でも、臨床が出来ない学生が出てきて当然です。

また、一流の大学、一流の企業から理学療法士になりたいと入学する学生がいましたし、臨床時代に、そのような学生の指導者にもなりました。

確かに、学校の成績はトップの方でした。

しかし、いざ臨床となると別でした。

そのような学生を何人か経験して、肩書きではないと思いました。

そして、臨床の思考と学問や企業で活躍する思考は別なのでは?と考えました。

臨床の考える力を自身で身につけるのは、とても大変な事です。

近道は、それが出来る人に導いてもらうことです。

昔、高視聴率のテレビドラマで‘仁’と言う、医療の幕末時代劇がありました。

その中で緒方先生が「道のため 人のため」と言う台詞の場面が何度かありました。

大げさかも知れませんが、私も「道のため 人のため」と考えていた節があったのだと思います。


最後までお読み頂きましてありがとうございます。

一部でも臨床教育の参考になれば幸いです。





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