#175 日本の和紙文化を席巻した「杉原紙」
『紙について楽しく学ぶラジオ/Rethink Paper Project』
このラジオは、「紙の歴史やニュースなどを楽しく学んで、これからの紙の価値を考えていこう」という番組です。
この番組は、清水紙工(株)の清水聡がお送りします。
よろしくお願いします。
日本の和紙文化を席巻した「杉原紙」
さて、今回は、和紙の話題です。
先日、兵庫県の「杉原紙」の産地に行ってまいりました。
兵庫県の地図で言うと、ちょうど中心部ですかね。「多可町」という町です。
僕の住む越前和紙の産地もそうですが、山間の自然豊かな集落と言った感じで、本当にいい場所です。
今回は、そちらで「杉原紙」を漉いていらっしゃる職人の藤田尚志さんに、色々とお話を伺ってきました。
僕自身、杉原紙の産地に伺ったのは初めてだったんですが、本当に面白いお話が伺えたので、皆さんにも共有していきたいと思います。
最初に、「杉原紙」は、大正時代に一度消滅しています。
そうなんです、「杉原紙」は、一度、長い歴史に幕を閉じているんです。
さて、「杉原紙」と聞いて知っている方、そんなに多くないと思います。
名前は聞いたことがあるけど、どこの和紙だっけ?そんな方もいらっしゃるんじゃないでしょうか。
それもそのはず。
現在、「杉原紙」を漉いているのは、「杉原紙研究所」ただ一軒です。
でも、歴史をさかのぼると、この「杉原紙」、日本を代表する和紙だということが分かってきます。
日本の和紙文化を席巻したといってもいいでしょう。
そんな日本を代表する「杉原紙」がなぜ途絶えたのか。
どんな歴史をたどったのか。
今回は、兵庫県の至宝・「杉原紙」の歴史をご紹介していきたいと思います。
杉原紙の原料
さて、先ずは「杉原紙」がどんな紙なのか。
基本的な原料は、「楮」と「トロロアオイ」です。
それから、「杉原紙」の特徴の1つと言ってもいいでしょう。
「米粉」が加えられることが多かったようです。
この、米粉を入れて漉くことを「糊入れ」と言います。
米粉を入れることで、白くて丈夫な紙になる一方、害虫には弱いという弱点もありました。
杉原紙の起源
杉原紙の正確な起源は分かっていませんが、現在の兵庫県多可町の前身の前身の「杉原谷」が発祥の地とされています。
合併があって、今は「多可町」となっています。
杉原紙が初めて出てくる文献は、関白・藤原忠実の日記『殿暦(でんりゃく)』です。
この日記の1116年7月11日の箇所に「椙原庄紙(すぎはらのしょうのかみ)」という名前が出てきます。
はい皆さん、「椙原庄紙」という名前に違和感があったかと思います。
そうなんです、今でこそ「杉原紙」という名前ですが、この時は「椙原庄紙」という名前だったんですね。
この『殿暦』の記録によって、1116年には杉原紙が漉かれていたことがわかりますね。
全国に広まった「○○杉原」
そんな、杉原谷で漉かれ始めた杉原紙ですが、杉原谷以外の地域でも漉かれるようになっていきます。
16世紀頃から、「周防杉原」、「備後杉原」、「加賀杉原」など、各地に広まり始めます。
そして、江戸時代になると一気に加速します。
「土佐杉原」、「美濃杉原」、「阿波杉原」、「越前杉原」、「信州杉原」など、なんと20にものぼる「○○杉原」が全国に登場していきます。
「奉書紙」や「鳥の子紙」も全国で漉かれた紙として知られていますが、広まり方で言うと、「杉原紙」が最も多くの地域で漉かれた紙だそうです。
こうして、もともとは「杉原谷」という地名からはじまった杉原紙ですが、全国に広まったことで、「杉原」という紙の種類として呼ばれるようになっていきます。
地域に根差した紙から、全国共通の紙の1種として認識されるようになっていったわけです。
杉原紙、消滅
そんな杉原紙も、明治以降は、洋紙の普及などの影響で、衰退の道をたどっていくことになります。
やがて、原料の楮も自給できなくなり、他産地から買わなくてはいけなくなりました。
そして、1925年。
ついに杉原紙を漉く職人はいなくなってしまいます。
あれだけ日本を席巻した杉原紙も、時代の流れには抗えませんでした。
しかし、1972年。
杉原紙の消滅から約半世紀後に、復活します。
次回、杉原紙がどうやって復活したのかについて解説していきたいと思います。
はい、という訳で、今回は杉原紙の歴史パート1でした。杉原紙の歴史は次回に続きます。
それでは、本日も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。