遊びと聖なるものについて、
おはようございます。本日も素敵な一日になりますように願っております。
ロジェ・カイヨワ著の『遊びと人間』について独自の解説を記述しておりますが、今回は補論の”遊びと聖なるものに関して記述させていただきたいと存じます。
『遊びと人間』ロジェ・カイヨワ著/多田道太郎・塚崎幹夫訳 講談社学芸文庫 第39刷 2019 (286-305頁)によれば、
ホイジンガの著書『ホモ・ルーデンス』で’遊びは、人間の根本的な本能の一つであるが、あらゆる本能のうち、永続的で貴重な文化の基礎となるものにもっとも不適当な本能と思われてきたが、本著書の中で遊びがいかに文化に貢献したか、その事実を集積し、分析することで、遊びの精神がけっきょくのところ文明というものの形成に大きく係わってきた’旨が強調されています。
ところが著者が遊びについてのさまざまな生物心理学的解釈をあっさりと片付けているために、遊びのそれぞれの活動に正確な意味を与える心奥の態度ではなく、むしろ外的構造となってしまっている上、著者が注意をそそいでいる考察対象は形式や規則であって、遊びそのものによって満足させられる心の欲求ではありません。そのため、遊戯的なものと聖なるものを同一視してしまい、当該書の弱点となっているという考えが述べられております。
遊びと聖は矛盾する存在であるがホイジンガは宗教についても、聖域、信仰、儀式などが閉ざされた空間の現実世界と生活から隔離されている中で、生の横溢と規則、恍惚と慎み、熱狂的錯乱と綿密な正確さといった互いに反する徳目が同時に働くことから、遊びとの関連を論証しております。
遊戯的なるものと聖なるものとの間の関連についてカイヨワとの意見の相違が生じており、遊びと信仰の諸形態が、日常生活の流れから慎重に自分を切り離している点は同じだとしても、日常生活に対してそれらが等価的な位置を占めているとも、またそれゆえに同一の内容をもっているとも、カイヨワは考えていないためです。
遊びは創造者である人間が作りだしたもので、遊びは人を憩わせ、くつろがせ、生活から気をそらせ、危険、気苦労、労苦などを忘れさせてくれるが、逆に聖なるものは内的緊張の世界で全能の存在のために人間は無防備で取り囲まれ、その意のままにひきまわされ、状況は逆であるためです。
最後に『ホモ・ルーデンス』では、聖なるものとは集団や個人の利害を超えており、すべての遊び、すべての高貴な活動や名誉ある競争の前提となる規則に取って代わるため、聖なるものの支配が存続しなければ、すべて創造的な営為の条件であるところの倫理や相互信頼や、他者の尊重もありえなく、誰もがあえて異をたてようとはせぬ聖なるものの支配、これを守るためには自分の生命を犠牲にしり、自分の集団の存続そのものをとするだけの価値があると誰しも考える、そのような支配的存在である聖なるものを指しており、戦争への地ならしとなっていても驚くことではありません。
一方遊び、しかも束縛されない遊びがなければ、また意識的につくられ、自発的に尊重する約束事がなければ文明というものは存在しないし、邪心がなく、勝利におごらず、負けても怨まず、つまり〔立派な遊戯者として〕フェアに勝負を行うこと、もしこういうことができず、望みもしなければ、文化というものはありえない上、一切の倫理、一切の相互信頼、他者の尊重はありえないとカイヨワは指摘しています。