『稲盛和夫一日一言』 2月6日
こんにちは!『稲盛和夫一日一言』 2月6日(火)は、「修行」です。
ポイント:自分に与えられた仕事に、愚直に、真面目に、地道に、誠実に取り組み続けることで、自然と欲望を抑えることができる。そのように日々努めていくことで、少しずつ自分の人間性を向上させることができるという意味では、「働くこと」は修行に似ている。
2011年発刊の『京セラフィロソフィを語るⅡ』(稲盛和夫著 京セラ経営研究部編/非売品)「仕事を通じて心を高める」の項で、働くことによって心を高めていくことの大切さについて、稲盛名誉会長は次のように述べられています。
試練を通じて心を高めていくことは非常に大事なことですが、同時に、働くということも心を高めるための大きな要素だと思います。
人間は誰しも、十分に余裕も暇もあったなら、低次元の自我が心の大部分を占めていきます。そうなれば、自分自身で心を磨こうにも、そう簡単に磨けるものではありません。
若いころの私は、そうした低次元の自我が出る間もないくらい、朝から晩まで忙しく働いていました。晩飯も素うどんをすすりながら頑張るといった毎日を過ごしているうちに、自我がどんどんすり減らされていきました。
つまり私は、強制的に働かざるをえなかったために、少しはマシな人間になったのではないかと思うのです。
人一倍働くということは、収入が増えるということだけを意味するものではありません。遊びたいと思っても、仕事があるから働かざるをえない。そのことが欲望を抑える、自我を抑えるということにつながっていく、そこに換えがたい価値があるのです。
強制的に欲望が抑えつけられているために、真我が芽生えてくる。それを五年、十年も続けていれば、人間は心を高めることができるわけです。
「働くということについて、ゆめゆめ文句を言ってはならんぞ」と言えば、「こき使おうと思って、そういうことを言っているな」と思うかもしれえませんが、そうではありません。働くということは、ほんとうに大事なことなのです。
低次元の自我、煩悩を抑えて真我に近づこうとすることは、悟りを開くということです。私たちは、真面目に一生懸命仕事をしていますが、働くということは、修行僧が修行三昧で心を高めていくことと似ています。
一生懸命仕事をすることで自分の心が高まるということは、悟りの境地とまではいきませんが、少しでも真我に近づこうと努力することに近いと思うのです。
一芸に秀でた方、一生涯、六十年、七十年、その仕事に精魂を込めてこられた方、学校は出ていないけれども、一つの仕事に打ち込んでこられた職人さんがおられます。
どのような分野でもそうですが、老境に入られたそうした方々が話をされるのを聞くにつけ、いずれも素晴らしい人間性を持っておられることに驚かされます。やはり、一つのことに精魂込めて打ち込んで仕事をするということが、人間性を高めていくことにつながっているのだと思います。
一生懸命に仕事をしていくということは、一面ではしんどいことであり、周りからもかわいそうに見えるものですが、それが自分の人間性、人格を高めていくのだと思えば、そうした苦労も耐えることができるのではないでしょうか。(要約)
「一心不乱に、精魂込めて仕事に打ち込む」
皆さんにも、「一生懸命になっていて、気がついたら定時を過ぎていた/『明日』になっていた/夜が明けていた・・・」などといった経験はありませんか?
試験前の一夜漬けとは違って、何とか目の前に立ちはだかる課題をブレークスルーできないものかと無我夢中になって取り組んでいると、感覚がズレてしまって、思った以上に時間が経過してしまう。しかし、自分は疲れも感じないし空腹も感じない、といったところでしょうか。
仕事をするのがしんどくて、何とかこの状況から逃げ出せないものかと考えているような人にとっては、とても受け入れがたいとは思いますが、与えられたものであっても、自分の仕事に、愚直に、誠実に向き合うことで、ネガティブな気持ちが湧き上がってくるのが徐々に抑制されるようになっていくはずです。
「働くことイコール修行」であり、また同時に「生きていくことイコール修行」なのではないでしょうか。