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『稲盛和夫一日一言』 12月12日

 こんにちは!『稲盛和夫一日一言』 12月12日(火)は、「高邁な志を抱く」です。

ポイント:何かを成そうとすれば、大きなエネルギーが必要となる。だからこそ、誰から見ても、どこから眺めても立派だと言えるような高邁な志、目的意識がなければならない。

 2007年発刊の『人生の王道 西郷南洲の教えに学ぶ』(稲盛和夫著 日経BP社)第十章 立志 「すべては思うことから始まる」の項で、稲盛名誉会長は次のように述べられています。

 西郷が最も厳しく戒めたのは、人が自分自身を高めていこうという志を捨て、努力をする前に諦めてしまう心の弱さでした。楽で安易なほうに流されるままに生きようとする人間の甘えを、「卑怯(ひきょう)」という言葉を使って叱りました。

【遺訓三六条】
 聖賢に成らんと欲する志無く、古人の事跡(じせき)を見、迚(とて)も企て及ばぬと云う様なる心ならば、戦に臨みて逃ぐるより猶(なお)卑怯なり。朱子も白刃(はくじん)を見て逃ぐる者はどうもならぬと云われたり。誠意を以て聖賢の書を読み、その処分せられたる心を身に体し心に験する修行致さず、唯か様(よう)の言か様(よう)の事と云うのみを知りたるとも、何の詮(せん)なきもの也。
 予今日人の論を聞くに、何程尤(もっと)もに論ずるとも、処分に心行き渡らず、唯口舌(くぜつ)の上のみならば、少しも感ずる心これなし。真にその処分ある人を見れば、実に感じ入る也。聖賢の書を空しく読むのみならば、譬(たと)えば人の剣術を傍観するも同じにて、少しも自分に得心出来ず。自分に得心出来ずば、万一立ち合えと申されし時逃ぐるより外(ほか)ある間敷(まじき)也。

【訳】
 聖人賢士(知徳の優れた人、賢明な人)になろうとする志がなく、昔の人が行った史実をみて、自分などとうてい企て及ぶことはできないというような心であったら、戦いに臨んで逃げるよりなお卑怯なことだ。朱子は刀の抜き身を見て逃げる者はどうしようもないといわれた。真心をもって聖人賢士の書を読み、その一生をかけて行い通された精神を、心身に体験するような修行をしないで、ただこのような言葉をいわれ、このような事業をされたということを知るばかりでは何の役にも立たぬ。
 自分は今、人のいうことを聞くに、何程もっともらしく議論しようとも、その行いに精神が行き渡らず、ただ口先だけのことであったら少しも感心しない。本当にその行いのできた人を見れば、実に立派だと感じ入るのである。聖人賢士の書をただうわべだけ読むのであったら、ちょうど他人の剣術をそばから見るのと同じで、少しも自分に納得のいくはずがない。自分に納得ができなければ、万一試合をしようと人からいわれたとき、逃げるよりほかないであろう。

 先賢の高邁な知識をどんなに学んでも、経営論や技術論をいくら習っても、道を究めようという強い信念、高い志、勇気をもって臨まなければ、身に心に深く刻み込まれることはありません。

 どんなことでも、まず強く思うことからすべてが始まるのです。
 固い志に拠って立つ人は、目標へと続く道筋が眼前から消え去ることは決してありません。たとえ途中でつまずいてもくじけても、また立ち上がって前へ前へと進むことができます。逆に、志なき人の前には、いかなる道も開かれることはないのです。
(要約)

 今日の一言には、「高邁な志、目的意識がなければ、自分の持てる力のすべてを出し切ることも、周囲の人々から協力を得ることも、成功を続けることもできない」とあります。

 名誉会長は、「島津いろは歌」の次の歌をよく引用されていました。

 いにしえの 道を聞きても 唱えても わが行ひに せずば甲斐なし

 「先人の教えを聞き、その言葉を暗唱しても、それを実践することができなければ意味がない」という意味ですが、「志を立てて道を踏む」ことの大切さが示されています。

 何かをやりたいと思い立っても、実行に移すにはなかなか大変そうだと逡巡してしまうこともあるでしょう。そんなとき、まずは「どうしてもそれをやりたいのか?」と自問してみることです。そうすると、どの程度の本気度なのか、冷静な目で自覚することができます。
 そして「何としても」という強い思いが燃え上がっていて消えそうもなけいと改めて自覚できたならば、高い志と勇気を持って一歩踏み出していく。

 西郷隆盛に「卑怯者!」と言われないよう、自分の人生から逃げることなく、前を向いて歩み続けていきたいものです。


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