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本当に読書をしたいのか。
読書が、好き。本が好き。
よく言うけども、本当にそうなのかわからなくなってきた。
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今の世の中は、とっても住みやすくて生きやすいのだろうと、四半世紀くらいしか経験がないながらも、多方面の状況を見聞きしていてしみじみ思う。
どうすれば健康になれるのか。
どうすれば幸せを感じることができるのか。
どうすれば経済的に裕福になれるのか。
何を食べず何を食べれば健康的に長生きできるのか
どういう行動をとれば脳内の快楽物質が出るのか
どうすれば効率よく老後資金が貯められるのか
どうすればうまく転職できるのか
そういったこれらの科学やデータによって明らかにされている知識や技術は、加速するインターネットメディアによって広く世の中に行き渡っているみたいに見える。
そうやって、幸せ(健康で裕福)への道が、大きな花道みたいに存在しているんだなとみんな感じているのではないかと思う。
幸せになるための着実な筋道であるということは疑いようがないこと。それでも、その大通りをたどるということは、その他の欲求や欲望に揺れ動く自分の心の動きを無視しなければならないということにもなる。
みんなでわいわいお酒が飲みたい、パスタが食べたい。
積立NISAじゃなくて棚に積むおしゃれな服が欲しい。
そんな当たり前に楽しいと思えることと、幸せになるための取るべき/取らないべき行動を、無意識ながらも天秤にかけて、みんな生きているんだろうなと思う。
その一方で、どうにかそういった幸せに反する行動を取りたい自分を無視して、脳死で幸せになりそうなことを片っ端から長い間やってきたときに、自分がある程度、健康かつ裕福になったことに気づく。
そんなときに、ふと自分の行動を中途半端に客観視してしまうと、心の奥底に見ないように丁重にしまい込んでいた虚無感が動き出す。
長らく幸せになるためと無視してきた自分の欲求に従ったとき、満たされる自分の心に気づき、急にざわつき出す。
幸せになるためと避けていた行動をとったときに、幸せを感じている自分は、たしかに存在している気がする。
「本を読むことが好き」なのは、それがどこかの研究者に明らかにされた、年収があがる行動だからなのだろうか。
幼い頃から大好きだった物語を綴る本を手に取ることなく、実用的なビジネス書ばかりを読んでいる自分、そして自分の本棚を眺めながら、ひどい虚無感に襲われた。