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「増補版 街場の中国論」読み終わり。(読書記録_19-2)
読み終わりました。
(以下は読んでいる途中のメモ)
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中身も面白かったですが、後書きがとりわけ面白かった。
書いた本人が言うのも何ですけれど、読み返してみて、ひさしぶりに面白いものを読んだなあという満足感を覚えています。
と、著者の内田樹さんも自画自賛です。
内田さん曰く、2005年の春頃、「日中の世界像の<ずれ>を中心的な論件にした中国論が読みたい」と切実に思ったそうなのですが、残念ながら注文通りの本が見つからない。
それなら、自分で書いてみよう、と。
自分は中国研究の専門家ではないけど、やはり中国問題の専門家がいない大学院生たちとわいわい議論して、思いつき的に口走ったことを素材に、そのあと調べたことを多少書き加えた、そうです。
そういえば、本の中でも、しょっちゅう「私は寡聞にして知らないですが」と注釈が出てきました。
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あとは、この本を書くにあたって、自分に課した要求として、「私がすでに知っていることを書いたら許さない」という条件をつけたそう。
これは少し不思議な条件です。
知っていることを書かない、ということは可能なのでしょうか?
知らなかったことだけを書いて本にできるのかな?と思ったのですが、そのカラクリについては、こう書かれていました。
「私が知らないこと」というと誤解を招きそうですけれど、この本を書く前から知っていたことは、私自身が改めて読まされても「面白い」という反応をすることは原理的にありえません。また、この本を書く過程で私自身にしっかり血肉化してしまったことも、今となっては「そんなの当然だろ」と思ってしまうわけですから、やっぱり面白いはずがない。ということは、私にとって「面白い」箇所は、書く前にはそんなことを考えたことがなく、書き終わったあとは忘れてしまったこと、ということになります。論理的にはそうですよね。書いている最中に「ふっと」思いついて、ごりごり書いて、そして書き終わって「やれやれ、風呂に入ってからビールでも飲むか」と思ったと同時に忘れてしまったこと。つまり、今読むと「誰か他の人が書いているように思えること」だけが、「面白い」という反応をもたらす箇所だということになります。
ちょっと回りくどい感じもしますが、要は、書いている最中は「ハッと」して「これこれ、これだ!」と思って書く。
ただ、書き終わった途端、忘れてしまう。(血肉になる、までは至ってない。)
で、読み返すと、まだ「面白さ」が残っている。
まだ噛んで味わいが残っている。
そういう要件を満たせたのは、やはりベースが学生との議論の中で瞬間的に湧き出た考えをもとに書いているからなのかな、と思ったりしました。
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あとがきについての感想が、長くなってしまいました。
中身については、内田さんは謙遜されて「中国の専門ではないので」と書かれていますが、一般の読者にしたら、隣国・中国について知らないことや、日本史含め、世界史について知識として知っておいた方が良さそうな内容ばかり。
以下、自分のためですが、少し引用と感想を残しておきます。
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もうひとつ、今日の話で面白かったのは、「中国の運命を左右してきたのは農民」だったという指摘です。中国史では、だいたい同じようなサイクルで王朝交代が起きます。パターンはいつも同じで、農村が疲弊して、農民が流民化し、それが各地で反乱を起こして王朝が滅びる。
易姓革命の国と、革命のない国
この部分、中国の王朝交代について独自の思想があるが、翻って日本はというと・・という日本の話になり、実は「万世一系」ではないが、物語としてそういうことにしよう、という合意をした。
さらに話は脱線し?日本人の国家観のねじれ、現代日本人の国家意識のいちばん脆弱な部分・・小泉純一郎のトラウマ・・へと話が流れていくのが、あれあれ?話が?と頭のどこかで思いつつ引き込まれてしまいました。
内田さんもこのあと、「話が、ぜんぜん違う方向に行ってしまいました」と方向修正していました。
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中華思想では中心に中華があり、周縁には北狄・南蛮・東夷・西戎が散らばっています。北狄は北方の異民族である突厥、匈奴、鮮卑、蒙古、回紇など。(中略)
狄・蛮・夷・戎はいずれも「えびす」と訓じます。要するに、王化に浴さぬ野蛮人ということですね。(中略)
そこには、「王化が及ばない」ということは現事実として認められている。けれども、それは「あいつらは野蛮人だ」という事実認知的な言明にすぎず、「だから教化せねばならない」という遂行的言明を論理的には導かない。ここがスペンサー流との違いです。
教化してもいいけれど、べつにしなくてもいい。そこまで中華の開化の光を届かせてもいいけれど、べつにそれは中華たる漢民族の義務としては観念されていない。
「化外の民」と帝国主義
この、「中華思想では中心に中華、周縁に異民族」という説明はこの本の中で何度も出てくる、論理展開の大元のような大事なポイント。
これは、現在の香港問題や、台湾問題を考える上でも大元に立ち返る意味で押さえておかなければいけないポイントだと思いますが、近年はこの本が書かれていた時より中国政府の態度が強硬で、それはつまり、中国に余裕がないことを表しているのかもしれないと思いました。
「中国と台湾」というテーマは、本の後半「第8講 台湾ーー重要な外交カードなのに・・・・・・」で1章割かれています。
僕ら日本人から見ると、台湾独立を許容するか、台湾を武力侵攻して併合するか、どっちかに腹を決めないと中国人としても「気持ちが悪い」のではないか・・・というふうに想像してしまうんですけれど、たぶんそれは僕らの想像の仕方が間違っている。国境線が画定していないで、辺境がなんとなくごたついていて、臣属関係がはっきりしないエリアがあるということは中国にとっては歴史的に「常態」であって、べつにそれほど不愉快なことではない。
中国人と日本人の時間意識の差
上記引用部分の考え方が合っているのだとしたら、中国は近年、強引に、三千年来親しんできた中華思想にはそぐわない、「白黒をつける」方向に舵を切っているのかもしれない。(と、一般民衆に思わせているだけで、実は根本思想は変わってないのかもしれないけど。)
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あとは、176pから始まる「二人の父」で、特に内田さんの義理の父親のエピソードには胸を打たれるものがありました。
中国の華南で七年間兵隊として荒らし回ったそうです。住民を殺し、略奪し、暴行したと・・。敗戦で武装解除となり、なぶり殺しにされても文句を言えないと覚悟していたところ、中国人たちは家をあてがい、復員するまで平和な一年間を過ごさせてくれたそうです。
これは、怨みは水に流そうという中国人の「徳治」のエートスが終戦直後の中国の田舎にもしっかり根付いていたことを表すエピソードとして書かれたものです。
内田さんの義理のお義父さんは、日中の国交が回復したあと、当時の戦友たちと、かつて暖かく受け入れてくれた中国の村を数度訪れ、テレビや電気製品を贈ったそうです。
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あとは、内田さんがテレビに出ない理由を説明しているあたりも、面白かったな。
それは、外交政策の当否について語るのに、テレビでは30秒や1分でシンプルかつクリアーカットに語ることが求められるけど、「どっちつかず」というのもリスク・ヘッジのひとつの形である、「白黒をはっきりさせない」ことが有効な外交政策となり、ひいては国益の増大になること、これらを説明するのは短い時間では無理、自分がテレビに出ない理由はこれに尽きる、ということを書かれていました。
・・確かに、テレビ向きな発言ではないでしょうね。
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と、だらだら感想記事でした。
出版年は古いですが、内容は現在の問題を考える上でヒントや枠組みを与えてくれる、お勧めできる本です。