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「幸せな子供時代は決して失えない」『わたしを離さないで(カズオ・イシグロ)』
英国の作家であるカズオ・イシグロの第六作目の長篇小説。ノーベル文学賞を受けて、一躍有名になったのは、2017年のこと。
あらすじ
介護人として十年間働いてきたと云う女性、キャシー・Hが、ヘールシャムという施設での子供時代を回想する。
謎めいた窪地に位置する、大きくて立派な建物。体育館は人気の遊び場だったけれど、気の強い親友のルースがいると、場所取りが楽だった。隠れて話せるところがいくつかあって、友達と噂話をして遊んだ。保護官と呼ばれる大人たちの目を盗んで、お気に入りの小道を歩くこともあった。癇癪持ちでいじめられっ子のトミーに、意地悪でマウンティング体質のルースなどの友人たちと共に、牧歌的なヘールシャムの中で、時に友情をはぐくみ、時に嫉妬心を胸の内に膨らませる、ありふれた、それでいて、あまりにも精緻な描写で語られる幼少期の日々。
ヘールシャムには、交換会という、生徒たちが各々、絵など自分の作品を出品して、お互い気に入ったものをトークンと引き換えにゲットできるという行事があった。図画工作の教育に力を入れるヘールシャムにおいて、交換会は一大イベントで、特に優秀な作品は、交換会でほかの生徒の手に渡ることなく、「マダム」という謎めいた女性に持って行かれる。彼女の持って行った作品は、「展示室」なるところへ行くというのがもっぱらの噂だった。
謎めいた「マダム」「展示室」「提供」などの言葉とともに、キャシーの幼少期は過ぎてゆき、ある日、唐突に保護官のひとりから、「貴方たちは将来、臓器提供で短い生涯を終える」と告げられる。
やがて成長したキャシー達は、無菌室のヘールシャムからコテージという別の場所に移され、仲間たちと共同生活を送る。その日々の中で、英国のロスト・コーナーと呼ばれるノーフォークまで遠出をして、ルースの”ポシブル(クローンである臓器提供者の、いわゆる親に当たる存在)”を探したり、”Never Let Me Go”という曲の収録された、キャシーの宝物のカセットテープを取り戻したりする、切なくも美しい一日を過ごす。
やがてコテージを出たキャシーは、提供者になる前の仕事として介護人を務めながら、ルースやトミーと再会を果たす。
ヘールシャムの旧友たちが、次々と死んでゆくなか、キャシーは、「ヘールシャム出身者で、”真に”愛情のある恋人同士は提供を猶予され、その判断の基準となるのが、マダムが持って行った作品(芸術作品は、”作者の魂を映し出す”から)である」という仮説を頼りに、トミーとふたりでマダムの元を尋ねる。
結局、猶予の噂は嘘で、マダムの自宅でかつての保護官、エミリ先生に語られたところによれば、「ヘールシャムは臓器提供クローンの人道的育成のモデル施設」であり、「生徒たちの作品は、クローン人間にも”魂”があることを世間に証明するためのものだった」ことが語られる。
衝撃的な一夜が明けると、数日後にトミーは最後の提供へと向かう。そして、介護人としての役目を終えたキャシーもまた、「行くべきところ(wherever it was I was supposed to be)」へと向かったのだった。
わたしの読み方
お恥ずかしながらイシグロの小説は初めてで、序盤のヘールシャムの子供たちの対人関係の描写に、「あぁ、すごいな」と衝撃を受けた。世間にある子供像だとか、人口に膾炙した幸せな子供時代のイメージだとか、そういった雑味無しにキャシーの視点から見た彼女の子供時代を細緻に描いて、それでいて読者の共感を誘う文章になっている。「あぁ、他の小説とはやっぱり違うんだな。大きな賞を受けるのはこういう小説なんだな」と、ひとりで納得した。しかも、作者自身そのことにさしてこだわりを示していないような感じがして、イシグロ自身への興味すら掻き立てられた。
作品を流れるとこか牧歌的かつ不穏で、でも懐かしいような空気感に引き込まれてページをめくり続け、ノーフォークの旅に胸を打たれ、エミリ先生からの衝撃的な告白以降は、頭の中が『わたしを離さないで』一色になり、読み終わってからも必死であれこれと考えさせられた。
私の読み方では、『わたしを離さないで』は、失われた子供時代の美しい日々を、人は決して失うことができないという話だった。
まずひとつこの作品を読んで注目したのが、人間は自分の認識の中でしか生きられない、と何度も何度も示唆されるということ。それはキャシーの語るこの物語が彼女の記憶に依るという事然り、個人的にはエミリ先生の告白も真実とは思えないし、読者は、キャシーの認識の中にいて、絶対に世界の全容を知ることが無い。”Never Let Me Go"というタイトルの解釈も無数にあり得る。「どうしてクローンたちは運命に抗わずに短い生涯を終えるの?」という疑問に対する答えの一つとして、かれらは、臓器提供により短い生涯を終える以外の選択肢を知らないから、というのが一番最初に思いつく。そう考えていくと、深読みっぽくもあるけれど、この小説は、自身に対する私の解釈もまた、偏向していて、無力なものであるということが織り込み済みなんじゃないかと思えてくる。
偏向していて無力というのは、子供の時の物の見方でもある。そして、そういう視点でみた世界の中にこそ、キャシーは美しい友情や幸せを見出した。ヘールシャムを出て悲劇的な運命に翻弄されるキャシーの元から、それは失われたようでいて、決して何物も彼女から奪うことができない。そのことを彼女は知っている。
どこのセンターに送られるにせよ、わたしはヘールシャムもそこに運んでいきましょう。ヘールシャムはわたしの頭のなかに安全にとどまり、誰にも奪われることはありません。
謎めいていて、彼女にとって気の遠くなるくらい壮大な世界おいて、信じられるのは、自分は幸せな子供時代を送った、という事だけだったんじゃないかと思う。そして、それは、哀れなクローン人間のささやかな幻の幸福なんかじゃなく、臓器提供システムにも奪えない、この世で最も完璧に近い幸せであると、この作品は教えてくれる。
おまけ。その他に思ったこと。個人的にトミーという登場人物はすごく興味深いと思っている。彼は癇癪持ちで(少なくともヘールシャム時代には)芸術に感性を示すことのない男子で、つまりマダムたちが証明しようとした、「”普通”の人間と同じ」「感受性豊かで理知的」というクローン像とは違うわけだけれど、やっぱりマダムたちの考えっていうのは、影に能力主義やエイブリズムがあって、とても偽善的だと思う。しかし、こういう考えを疑いなく受け入れる人は恐らく少なくはないだろう。
あと、クローン人間を、あの世界における人類の造った一種の作品として見ると、クローンの存在を彼らの作品で測るっていうのは、皮肉だと思った。