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35年間、好きな事を続けるDJ TAC(52歳)②~DJをディスクジョッキーと読む~

音楽の英才教育

風営法も無ければなんでもアリだったDJ TACの子ども時代。

70年代後半、小学校の同級生が歌謡曲を聞いているような時。一方で、欧米の楽曲を聴く機会が多くあった。歳の離れた親戚やさらにその友達から日本には無い新しい音楽を教わった。

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レコードはシングルがほぼなく主流はLP盤(アルバム12インチ)。とても高価だった。それを聴ける機会があればみんなで集まって聴いて、録音させてもらった。

幼少期から欧米音楽の英才教育を受けていたTACさん。
うらやましい限りです。

すでにその頃からディスコに遊びに行くように・・。当時は、早いところだと放課後の午後3:00頃からオープン。格安で入場できた。500円で飲み食い自由。初期のディスコは、セット料金になっていて入場料を支払うとフリードリンク・フリーフードというシステムが多かった。

入場料がない場合は今のようなバーカウンターで都度、飲み物を購入するキャッシュオンデリバリー。

正直、小学生のうちからディスコで遊び始めるって一体どんな子供だ!?と耳を疑いました。

ディスコブーム

そんなDJ TACが日本のディスコブームの火付け役と語ったのは、ダンスクラシックスの代表的グループである「Earth, Wind & Fire」。彼らの存在が大きいのではないかと考察している。

以前からEarth, Wind & Fireはブラックミュージック界で活躍していたものの、ディスコブームに乗って、メインストリームにおけるダンスクラシックスを当たり前にした。それが日本でもヒットし、日本市民にもディスコへの憧れが自然と生まれてくるようになったのではないかと。

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ダンスクラシックスとは「ダンクラ」とも呼ばれ、ブラックミュージックのジャンルであるR&B、ファンク、ソウルなどから派生したいわゆるディスコミュージックのこと。

当時のディスコにもDJというポジションはあったが、現在のクラブDJとは全く違う職業だと思ってよいだろう。そもそも当時は曲と曲をつなぐミキサーというものがなかった。
ラジオDJを思い浮かべると分かりやすいが、ディスクジョッキーはブース内に座り、次から次へと楽曲をセレクトしていく。1曲終わると合間に場を盛り下げないため、DJがMCを入れ、気の利いた曲紹介などをする。

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ディスコはまさにラジオの延長のようなもの。ラジオ局をモチーフにしたディスコもあったほどだ。

FM YOKOHAMAもTACさんと同じく今年開局35周年とのことで、新しい音楽カルチャーの動きが起こり始めたのがまさに約35年前だったのでしょうか。

当時のDJブースはダンスフロアの目立たないところにあり、その存在を消していた。TACさんの表現で言うと・・・

「主役はあくまでお客さん。DJは音響屋さんのようなイメージ。」

DJブースのトリコ

中学生になりたての頃、モテたい気持ちもあり、新曲とダンスを一生懸命覚えた。結果、あまりダンスは向いていないなと思った。踊り以外でできることはないのかな、と考えていた時に、そういえば「曲をかけて喋っているやつ」がいるな、と。そこではじめてDJに興味を持ったそうだ。

当時、DJブースを覗く人なんかほぼいなかった。そんな中、DJに興味を持つ少年の存在が目立ち、顔を覚えてもらい、出入りしているうちにお店の人と仲良くなっていった。

ディスコに遊びに行けば学校(現実)とは違う、さらに広い人脈・違うエリアの人たちと遊べるとても刺激的な空間があった。行動範囲が広がるという意味でも楽しかった。

「好奇心旺盛」で「音楽が好き」という性格に「モテたい」という本能的な部分が合わさってディスコに通う原動力となっていた。

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言ってしまえばそういう人間の本能的な衝動や欲求が音楽業界を盛り上げている部分がある気もしますよね。だからこそ、音楽は形を変えながらも人間とともに生きているのでしょうか。

<つづく>


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