わたしの蒐集履歴書 その4
私は東京と大阪で活動している、アンティークレースを研究する研究会『Accademia dei Merletti』を主宰し、「アンティークレース」についての考察や周知を行なっています。
前回の記事は↓こちらをお読みください。
19世紀のレース
ー ポワン・ド・ガーズとポワン・ダランソン
私のコレクションというお題。
日本でレース好きの方が好まれるのは、多くはポワン・ド・ガーズやポワン・ダランソンと呼ばれる19世紀後期以降のレースではないでしょうか。
女性らしいバラなどの花卉文様で、華やかな雰囲気をもったデザインの多いこれらのレースが人々を惹きつけるのはよく解ることです。
私は蒐集のはじまりが18世紀前期のニードルレースからだったので、19世紀後期や20世紀初頭に作られたこれらのレースは蒐集の対象として重視していませんでした。
そして何よりも、これらのレースは人気も高く、多くの需要があるので以前からとても高価なものなのです。そのために資金に余裕のない私は、満遍なく全てのレースを蒐集するということは難しく、自ずとこれらのレースは二の次となっていきました。
『 私のコレクション 』と題して書き続けてきたこのシリーズの最終回は、そのような私が蒐集した数少ない19世紀後期から20世紀初頭にかけて製作されたレースにスポットを当てたいと思います。
17世紀から18世紀初期に流行したエキゾティックで東洋的な植物文様と同様の雰囲気をもった古典的なデザインが印象的なこのレースは、バラの花のモチーフが多いこの時代のポワン・ド・ガーズとは一線を画す独創的な雰囲気に惹かれました。
ー ポワン・ド・ガーズの写実表現
ポワン・ド・ガーズはまた、巧みな写実表現も得意としました。人物像や天使などのモチーフがよく見られるレースでもあります。
私のコレクションになかにフィレ・レースとリシュリュー刺繍( カットワーク )
で装飾された飾り布があります。この飾り布には4つのメダイヨンが嵌め込まれています。
メダイヨンはポワン・ド・ヴニーズ( ヴェネツィア様式のニードルレース )の技法で百合の紋章と、ポワン・ド・ガーズの技法で4人のルネサンス時代末期からバロック時代初期の衣裳を纏った男女のプロフィール( 横向きの人物像 )が巧みに表現されています。
人物像と時代感を合わせた16世紀末期から17世紀初期の様式のフィレ・レースとリシュリー刺繍が製作者やデザイナーの考証力の高さを物語っています。
ー ポワン・ダランソン
ポワン・ダランソンはアランソン・レースとも呼ばれ、ノルマンディーの街アランソンの名前を冠したレースです。アランソンでは刺繍の製作の伝統があり、16世紀からカットワーク・レースの産業が根づいた地域でした。
ジャン=バティスト・コルベールの肝煎でフランス各地に設置された王立レース製作所のひとつが置かれた街でもありました。
しかし、アランソンで培われたニードルレースの産業は18世紀後期の不況と、1789年からはじまるフランス革命により衰退を余儀なくされました。ナポレオンが皇帝に即位して、第一帝政の宮廷を飾るための御用が復活した後も18世紀のような緻密な技術は復活することはありませんでした。
このユイニャール=べナール社の製作したポワン・ダランソンは人気のデザインで、同社で継続的に生産販売されたレースのひとつとなりました。
ポワン・ダランソンの中でも陰影をステッチの濃淡グラデーションで表現したものを《 オンブレ 》と呼んでいます。このレースのバラの花弁にオンブレが使われています。
私が仕事で海外出張を頻繁に行なっていた時期、フランス滞在中にル・マンのアンティーク・フェアに行って見つけたものです。このレースを扱っていた男性ディーラーはとてもレースを大切に扱う方で、その後出張の度にパリ近郊の自宅にお邪魔していくつかのレースを購入させていただくこととなりました。
この小さなボーダーも同じディーラーから譲っていただいたものです。小さくて華やかさはありませんが繊細なステッチで可愛らしい雰囲気となっています。
資料として私はいくつかのアランソンを蒐集しましたが、大きな作品は予算的に割けないので断片などの小さなものが殆どです。
このボーダーは私のコレクションのなかで唯一のポワン・ダランソンの大きな作品です。クリノリンと呼ばれる大きなスカートを装飾するためのもので、ナポレオン3世の第二帝政時代( 1852年 - 1870年 )に製作されたものです。
私自身は豪華で派手なレースはあまり好みではないので、こちらのレースも豪華過ぎず上品で洗練されたデザインが気に入って入手しました。
その他のレース
ー シャンティイ・オンブレ
シャンティイは18世紀には地味なレースでしたが、19世紀に人気を博したレースのひとつです。
通常は陰影のない単一表現の多いシャンティイですが、なかにはモチーフの陰影をグラデーションの濃淡で表現したものがあり《 オンブレ 》と呼ばれています。
シャンティイ・オンブレは数が少なく、バイユーのルフェヴュール工房などの高い技術をもった職人を抱えていた限られたレース商によって生産されていたので美しいデザインが多いのも特徴です。
ー ブロンド・レース
このブロンド・レースのストールはまだ私がアンティーク・レースのさまざまな種類を全て網羅したコレクションを目指していた頃に入手したものです。
ブロンド・レースは絹糸を使用しているので紫外線により傷みが生じやすいレースで、1820年代から1830年代に流行したレースでもありデザインが趣味に合い状態の良いものも少なく長らく蒐集の対象となるレースに出会えませんでした。
帝冠とNのイニシャルに蜜蜂のモチーフが印象的なこのストールは、通常のブロンド・レースとはバラのモチーフやデザイン構成が明らかに異なるレースです。
来歴によるとナポレオン3世の皇妃ウージェニー・ド・モンティージョEugénie de Montijo( 1826 - 1920 )が所有していたとのことでした。
ブロンド・レースには珍しい、皇妃の好んだロカイユ文様がデザインされているのも興味深いストールです。
ー ブラーノ・レース学校
19世紀後期の1872年にサヴォイア王家の王妃マルゲリータMargherita Maria Teresa Giovanna di Savoia-Genova( 1851 - 1926 )の後援により、議員のパオロ・ファンブリとアンドリアーナ・マルチェッロ伯爵夫人によってヴェネツィアのブラーノ島に設立されたのが《 ブラーノ・レース学校 》La Scuola dei Merletti di Buranoでした。
この学校はブラーノ島の住民にとって深刻な経済危機の時代に、伝統のあるニードルレース製造を復活させることを目的として設立されました。
この学校に通う少女たちはレース技法を学ぶだけでなく、学校を通じてレースを販売する機会を得られ、また極貧の状況下でも毎日の食事が保証されていたのです。
施設では既に廃れてしまった18世紀のステッチ技法やデザインの再発見が試みられて、生徒たちの真摯な活動に重点を置いた質の高い生産に乗り出しました。
レースの製造は基本的には個人や家庭向けのリネン類を主要商品となっていました。また稀にですが聖職者の衣服の装飾などにも用いられイタリア国内外で大きな成功を収めました。
1899年には、ブラーノレースに商標を適用して競合他社と区別することが決定しました: 白いリボンに黄色いシルクで「Scuola Merletti di Burano, Patronato di Sua Maestà la Regina」(ブラーノレース学校、女王陛下の庇護)と書かれ、鉛で閉じられていました。
私のコレクションのなかでブラーノ・レース学校の作品と確認できるレースはこの作品のみです。
1899年にはブラーノ・レース学校の製品は商標登録をして競合他社と差別化が図られました: 白い絹製リボンに黄色い文字で「Scuola Merletti di Burano, Patronato di Sua Maestà la Regina」( 王妃陛下の庇護によるブラーノ・レース学校 )織り出され、鉛タグで封印されていました。
20世紀初頭にすでに始まっていたレース産業の危機は、人々の嗜好の変化や戦争と他地域で生産される価値の低い安価なレースとの競争によって、レース学校のレース生産を徐々に衰退させることとなりました。
その結果、1973年に100年におよぶ歴史に幕を下ろすこととなりました。1981年にブラーノ・レースの共同事業体が設立されて島の女性たちが家庭内で密かに育くみ続けてきたレース作りの活動を復活させようと試みましたが、大きな成果は得られませんでした。
1995年に共同事業体と付随する協同組合は解散、この復興プロジェクトの一環として設立された博物館はヴェネツィア市立の市民博物館の運営下に置かれることとなりました。
ブラーノ・レース学校の保存資料、デザイン画や写真資料などの歴史的・芸術的に重要な遺産は現在モチェニーゴ宮殿博物館に設置された《 織物と衣装の歴史研究所 》に保管されています。
おわり