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遺伝子レベルの「改造」へ!?〜『いのちを“つくって”もいいですか?──生命科学のジレンマを考える哲学講義』

◆島薗進著『いのちを“つくって”もいいですか?──生命科学のジレンマを考える哲学講義』
出版社:NHK出版
発売時期:2016年1月

バイオテクノロジーや医学の進展は、私たちに多くの恩恵を与えてきたことは紛れもない事実ですが、その一方で「いのち」をめぐる様々な倫理的問題を浮上させきました。従来不可能であったことが可能になることによって、哲学的・宗教的な難題が新たに持ち上がってきたのです。それに伴いバイオテクノロジーと生命倫理の関係を問う議論は欧米では活発に行なわれてきたようです。が、日本では文学作品においては村上龍をはじめいくつかの試みはなされてきたように思いますが、充分な議論の蓄積があるとはいいがたい。本書は宗教学者の島薗進が日本の文化的・歴史的文脈を考慮に入れながら、医療に関わる生命倫理の問題について考察するものです。

とくに問題になるのは、人間の遺伝子のレベルにまで到達して治療を施すような医療です。今は限定的になされている人間の遺伝子治療がより広範囲に拡大していくとすれば、これまでの人間がもっていなかった特殊な性質や能力が誕生するかもしれません。
また昨今注目を集めているES細胞やiPS細胞などの研究・利用においては「始まりの段階のいのちを壊す」ことの是非、すなわち受精卵=胚の破壊を許容できるかどうかが社会的問題となっています。私の知るかぎりでは静物学者の福岡伸一がこの点については積極的に問題提起しています。

さらに著者が問いかけるのは、予測ができない科学研究の帰結について、あらかじめ議論する必要があるのではないか、という問題。遺伝子レベルの「選別」にとどまらず、人間の「改造」にまで進んでいくのではないかという危惧がそこには孕まれています。

本書の議論のベースになっているのは、アメリカのブッシュ政権時代に大統領生命倫理評議会が出した『治療を超えて』と題する報告書。「エンハンスメント」につながる医療・研究の是非を倫理的な側面から討議してまとめたものです。「エンハンスメント」とは病気を治療するという次元を超えて「より強い、より有能な、より幸せな」人間を求める科学技術のことをいいます。

重大な病気の防止などを目的に慎重に行われる遺伝子レベルへの介入(エンハンスメント)は、強制的なものではない、人びとの幸福に寄与する「新しい優生学」であり、ゆえに許容できると楽観的に考える向きもあります。しかしエンハンスメントに対する疑義の声も無視できません。

代表的な批判として考えられるのは、医療そのものの安全性の問題、公正さに関わる問題、個人の自由な主体性を傷つける……などです。さらに「アイデンティティと個人」に関わる問題で、端的いえば「自分自身が何者であるのか」ということに確信がもてなくなるという人間存在の根源にふれる問題も浮上してきます。

日本でもすっかり有名になったマイケル・サンデルはこの問題に関して「人間が自由であるための前提となる人間のあり方が掘り崩されてしまう」と述べています。西洋の生命倫理の議論では「個としての人間のいのちの尊厳を侵さない」というところに大きな比重がかけられてきたが、サンデルの主張は「授かりものとしてのいのち、恵みとしてのいのち」という観念を導入し「つながりのなかに生きるいのち」「持続可能な集合体のなかのいのち」に注意を向けた画期的な議論であるとして、島薗は肯定的に言及しています。こうした視点は本書の中核を成すものといってもいいでしょう。

……従来の医療は、公衆衛生的な観点、すなわちひとつひとつの病気を治していけば、“その患者さん”の世界が回復され、それが個々の人に対してきちんと行われれば、全体として社会、環境とのよい関係が維持できる、という前提に立っていたと思います。ところが、バイオテクノロジーに代表されるような医療技術のとめどない発展により、病気や不調で困っている“ある人”を治療することが、周りの他の人びとの生活を、ひいては人類のいのちのあり方全体を大きく変えてしまう、すなわち環境全体に多大な影響を及ぼすようになってきているのではないでしょうか。従来の倫理意識に基づく「個としてのいのち」という観点にとらわれていると、現在、そしてこれからの社会では、このようなマクロな視点からのいのちの脅威が見えなくなってしまう可能性があります。(p216)

島薗は、以上のような論点を考察するにあたって、オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』や深沢七郎の『楢山節考』など文学作品なども参照しつつ柔軟なアプローチを試みています。本書は医療と生命倫理の問題を考えるうえで極めて示唆に富む本といえるでしょう。

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