与太郎はバカじゃない!?〜『米朝置土産 一芸一談』
◆桂米團治監修『米朝置土産 一芸一談』
出版社:淡交社
発売時期:2016年3月
桂米朝は若い頃にはテレビ・ラジオによく出演していました。それで名前を知った視聴者が落語会に足を運ぶということも少なくなかったはずです。後に人間国宝となる稀代の落語家はマスコミの力を活かすことにも巧みだったように思います。
さて本書は一道一芸に優れた人を招いて対談する朝日放送のラジオ番組を書籍化したものです。存命中の1991年に『一芸一談』として第一弾が刊行されていて、本書はその第二弾にあたります。
対談の相手は、夢路いとし・喜味こいし(漫才師)、菊原初子(地歌箏曲演奏家)、朝比奈隆(指揮者)、吉村雄輝(上方舞吉村流四世家元)、小松左京(作家)、島倉千代子(歌手)、小沢昭一(俳優)、橘右近(橘流寄席文字家元)、高田好胤(薬師寺管長)、阪口純久(南地大和屋四代目)、立川談志(落語家)、茂山千之丞(大蔵流狂言師)。今では鬼籍に入った人が大半ですが、文化人米朝の交友の広さを伝える錚々たる顔ぶれです。
夢路いとし・喜味こいしは大阪漫才の至宝だったと今でも思います。あのゆったりとした間合いでトボけた笑いを醸し出す話芸はまさに一代限りのものでした。本書では経歴にまつわる昔話が中心ですが、後半の芸談で真っ先に客いじりを戒めているのは正統派漫才の本道を指し示すことばであるでしょう。
地歌箏曲演奏家の菊原初子の語りは、厳しい祖父の懐古談にしても幼少期の遊びの思い出話にしても、すべてが上方の調べのように聴こえてきます。その大阪弁は古き良き時代の情感を伝えてとても麗しい。「浄瑠璃」には「じょおろり」のルビが振られているのも一興。活字で読むだけでなく、一度生の声を聴いてみたかった気がします。
小松左京とのトークも息の合ったやりとりで調子良く読ませます。登場人物の命名について米朝が何気なく振ると、小松が名前に関する仕掛けを次々と披露し始めるのが愉しい。
お茶屋でもあり料亭でもあった大和屋の四代目女将・阪口純久の昔話も味わい深いものです。古式ゆかしい芸事を守ると同時に、昭和十年代の改装時には冷暖房やエレベーターを設置するなど時代の先端を行くような店構えも必要とされたらしい。宝塚歌劇が大和屋の「少女連」をヒントにしてできたものというエピソードは初めて知りました。残念ながら本拠の南地大和屋は2003年に閉店しています。
談志と米朝の〈笑い〉をめぐる談義は、千葉雅也の『勉強の哲学』におけるユーモアとアイロニーの葛藤を想起させる内容といえば大げさになるでしょうか。与太郎はバカじゃないという認識で一致するのも面白いし、観客に媚びない姿勢をはっきり打ち出している点には大いに共感します。東西の両名人による出色の落語論といえましょう。
それにしても、米朝が明治以降の文化教育に関してやんわりと批判する場面が繰り返し出てくるのが印象に残りました。「日本の明治からこっちの学校教育で自分のところの音楽を、こんなに否定してしもうた国はないと思いますな」。
日本の歴史や伝統を大切にしようと呼びかける今どきの政治家や言論人は、なぜか戦後のあり方を標的にすることが多いようですが、むしろ歴史や伝統の破壊は明治維新政府によって加速された部分が大きかったのではないでしょうか。その意味では、桂米朝は良い意味での文化保守主義を体現していた粋人ではないかとあらためて思います。
さらに付け加えれば、本書からは落語家としての話芸のみならず話相手を気持ち良く語らせることにさりげなく才を発揮した米朝の聴き上手を読み取ることもできます。その意味では、落語とはあらゆる文化を吸収しうる大きな器としての古典芸能ともいえるのかもしれません。