忘れられた言葉に光をあてる〜『1968[2]文学』
◆四方田犬彦、福間健二編著『1968[2]文学』
出版社:筑摩書房
発売時期:2018年3月
四方田犬彦が編集を務める『1968』シリーズの第二弾。文学作品に対象をしぼったアンソロジーです。本書では、詩人・映画監督の福間健二も編集に加わっています。
ここで積極的に目を向けているのは「時代をすぐれて体現しているにもかかわらず、不当なまでに蔑ろにされたり、また一度も照明が当てられることなく、忘却に付されてきた文学作品」です。
中上健次の若かりし頃の詩を読めたのはうれしい。寺山修司が編んだ無名の若者たちの詩も当時の若年層の知的レベルの高さがうかがえ、充実した読後感をもたらしてくれます。そして永山則夫の《無知の涙》からの抜粋。
小説は三篇。ピンク映画女優などをしながら小説修業を重ねたという鈴木いづみの《声のない日々》。彼女の作品を読んだのはもちろん初めてです。やや平板な構成ですが、36歳の若さで縊死したのは惜しまれます。
佐藤泰志の高校生時代の作品《市街戦のジャズメン》。文章は荒削りながら東京での学園闘争を遠く函館で眺めることしかできなかった若者の「独特のもどかしさ」が描かれていて興味は尽きません。
石井尚史の《〈同士達〉前史》。高校バリケード闘争を描いた短編小説です。闘争に参加した高校生たちの心理を描写していく視点の移動はいささかぎこちないものの、何よりも高校生の視点から1968年を描き出したことに価値があるでしょう。
道浦母都子の短歌もこの時代の空気を鮮やかに伝えてくれるものです。とりわけ国際反戦デーで逮捕された体験をもとに歌われた言葉は、その切実さにおいて、生々しさにおいて、今時のポップな短歌とはかなり隔たっているように感じられ、たいへん印象に残りました。
また芝山幹郎や帷子耀らの饒舌な詩作品に関して、四方田は1990年代以降に日本でも興隆してきたラップ・ミュージックの先駆的表現と見なしているのも卓見ではないでしょうか。
四方田がかねてより熱い視線を注いできた平岡正明の批評はやはり外せないものでしょう。《ジャズ宣言》《地獄系24》《永久男根16》から抄出しています。過剰な性的表現は好悪を分かちそうですが……。
1968の時点で東京大学の大学院博士課程に在学中だった藤井貞和は国文学研究の初期における国家権力との癒着を指摘しています。つまり国文学は新しい国学としてのみずからの務めをまっとうしたのだと。そのうえで、研究者イデオロギーのよそおいを科学の名において暴き立てていくことを訴えています。人文学への逆風が一層強まりつつある現代、藤井の論考は改めてアクチュアリティを帯びてきているようにも思われます。
土方巽の《犬の静脈に嫉妬することから》は談話とエッセイを再構成して編まれた書物らしい。土方独特の想念や表現には戸惑うところも多々あるのですが、四方田は「主題的な、また文体論的な意味で、そこには土方自身の舞踏との相同性を認められる」と解説しています。
最終章に収められた、吉本隆明、澁澤龍彦、三島由紀夫ら大御所のテクストにはさほど面白味を感じることはできませんでした。三島が雑誌《アンアン》の創刊に際してお祝いの言葉を贈っているのはほほえましい。
全体的に難解なテクストが少なからず含まれていて、それはそれでこの時代の知的雰囲気を色濃く体現したものともいえるのでしょう。
四方田は本シリーズの第一巻において次のように書いています。
社会学者のなかには、こうした文化的実験が日本人の大多数には理解もされず、また知られていなかったという「統計」的事実を持ち出し、そのすべてが後年に神話化されたものであると断定する不幸な傾向が存在している。……(中略)……いうまでもなくこの論理は、前衛的実験が存在していたという事実を無視し排除しようとする、支配的な権力構造に出来する言説である。
本書ではこうした官僚主義的な言説に対しては、明確にその態度を批判しておきたい。古今を通して、もっとも新しい文化運動、芸術思潮は、つねに時代の少数派によって担われてきた。その担い手たちは、望むと望まないとにかかわらず、少数派であるがゆえに社会的に孤立し、その孤立を政治的なものとして提示せざるをえない不可避性を抱え込んでいた。政治を表象する文化があったのではない。文化が政治的たらざるをえない状況が存在していたのだ。(『1968[1]文化』p29)
そうした言葉を念頭に置いて本書に収められた言葉に接する時、私たちはよりいっそう当時の状況のなかで生きて書いた人たちの切実さの一片に触れることができるでしょう。それもまた一つの貴重な体験にほかなりません。
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