国語学者による多彩な“フィールドワーク”〜『日本語大好き』
◆金田一秀穂著『日本語大好き キンダイチ先生、言葉の達人に会いに行く』
出版社:文藝春秋
発売時期:2016年6月
国語学者の金田一秀穂が「言葉の達人たち」13人と対談した記録です。対談相手は、加賀美幸子、桂文枝、谷川俊太郎、外山滋比古、内館牧子、安野光雅、ロバート・キャンベル、きたやまおさむ、三谷幸喜、出口汪、糸井重里、土井善晴、吉本ばなな。
昨今の日本語の乱れを嘆く類の議論がかなり弾んでいるのですが、それらはありふれた議論で私にはいささか退屈でした。そんなわけで例によって玉石混淆の中から私的におもしろく感じられたものを以下に紹介します。
ロバート・キャンベルは、日本のモダニズムを生み出す源流となった、日本文化や江戸時代以前の「くずし字」、漢文の素養などを現代日本人が忘れてしまっていることを惜しみます。古文や漢文がなぜ敬遠されるようになったのでしょうか。
明治を境にして、日本語に圧倒的な断絶があるからだと思います。明治維新後の近代化によって言葉もその表記も大きく変わりました。だいたい、江戸時代に書かれたもので、いま活字で読むことのできるものは恐らく全体の一割にも満たない。版本や写本など、多くがくずし字のまま放置されている。(p116)
英語の場合は、200〜300年前の作品を手軽に文庫本で読むことができるのに、日本語ではできない事態は「もったいない」。
それにしても「日本語自体がとんでもないビッグデータを蓄積しているのに、くずし字が読めないためにアクセスできない」ことを外国の研究者から提起されるのは少々恥ずかしいことではないでしょうか。
きたやまおさむは、精神分析と言語の関係を語って奥の深い議論を展開しています。以下のような発言は広く一般社会にも通じるものでしょう。
第三者にわかりやすい言葉が重視されて、一人だけでもいいから通じればいい、わかる人にわかってもらえればいいという発話が控えられるようになっていると思うんですね。
精神医療で問題となるのは、患者が口にする、一見 “訳のわからない” 言葉をどう受け止めるかです。(p130)
言葉というものは、喋って相手にぶつけることで感情をコントロールすることのできる装置です。だから、口喧嘩や悪口雑言だって捌け口として大切。(p131)
「あれかこれか」と凝り固まって考え慌てるのではなく、「あれもこれも」と余裕をもって二股をかける、まずは二重人格的になるべきだというアドバイスは人が精神的な袋小路に入るのを防いでくれる有効な言葉かもしれません。
料理研究家・土井善晴は和食の素晴らしさを言葉で表現することの重要性を力説して、本書のなかでは異彩を放っています。柔らかで上品な関西弁はテレビ番組でもおなじみですが、「日本語上手は料理上手」という標題が土井の考えを端的にあらわしているといえましょうか。
日本って、食べ物についての議論が無さすぎですよね。例えばフランス人なんて、ワイン一つとっても、色んな表現方法があるわけじゃないですか。「濡れた子犬のような香り」とか「蒸したバナナ」とか。(p201)
「これまで当たり前だと思って、言葉にしなかった」という日本の料理文化のあり方に対する料理人からのささやかな問題提起。人は料理を〈美味しい/不味い〉という観点のみで評価しがちですが、それ以外にも料理には楽しみ方があると土井はいいます。美味しくないものの中にも楽しみがあるのです。
苦いものって、美味しくないですよね。でも苦くても食べるのは、どこか自分たちで刺激が欲しいと思っているんです。白米の方が絶対に美味しいのに、雑穀のような口当たりの悪いものを食べる。単に健康にいいからだけじゃないんです。(p202)
冒頭で「フィールドワーク」と記しているとおり、ホストの金田一はあまり前に出ず、聞き手に徹しているような印象です。対談相手に気持ち良く喋らせるという点では、なかなかの聞き上手といえるかもしれません。
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