商業主義の主流化にいかに対抗するか〜『メディア不信』
◆林香里著『メディア不信 何が問われているのか』
出版社:岩波書店
発売時期:2017年11月
誰もが自由に発信できるインターネットは新聞やテレビなど在来のメディアに対する批判を可視化させました。少々言いがかりめいた内容でも多くの「いいね」がつき、拡散されていく。もちろん批判とは対象に対する愛着の裏返しでもありますから、メディア批判がただちに「メディア不信」を意味するわけではないでしょう。ゆえに「メディア不信」という現象を社会問題として解明しようとするならば、その内実をきちんと検証する必要があります。
というわけで、本書では国際比較研究の知見をもとに、ドイツ、イギリス、アメリカ、日本の四つの国における「メディア不信」の実態を見ていきます。「メディア不信」と一口に言っても、国や地域によってかなり内容は違っています。
ドイツにおける昨今の「メディア不信」はもっぱらリベラル・コンセンサスに偏向しているとの右派からの攻撃に根ざしているといいます。日本でいえば政権界隈の人々が朝日新聞や沖縄県の新聞を目の敵にしているのとほぼ同じイデオロギー的な態度と考えればいいでしょうか。
ちなみにリベラル・コンセンサスとは、ナチスの過去を克服すべく感情的なナショナリズムを排斥しようとする70年代以降のドイツで広く共有されてきた思想的傾向です。
イギリスでの「メディア不信」については、EU離脱とメディアの関係を軸に考察を進めています。権力の監視機能を問題にするとき、英国内のメディアは欧州委員会や欧州議会をいかにチェックしているかが問われることになります。当然ながらナショナルな枠組みで編成されているメディアがそれらを監視する体制は手薄と言わざるをえないでしょう。
いささか複雑な様相を呈しているのは、BBCへの批判内容です。BBCは、離脱か残留かという二者択一の議論について「バランス」を重視するあまり、議論の内実を掘り下げる努力を怠り、国民の知る権利に応えていなかったという意見が強いのだといいます。
しかし後段では「BBCも、政党や政治家の動向の報道が中心となり、一般市民、とくに『置き去りにされた』人々の目線でのEUに関する情報は後手に回ったと言えよう」と林は総括しています。「エリート」と「置き去りにされた人々」という対立図式においては逆にアンバランスな報道しかできなかったということなのでしょうか。私がBBCの記者ならば、どうすればよかったのかと途方に暮れるに違いありません。
米国における「メディア不信」も社会の分断を背景にしたもので、かなり政治的な要素を含んでいるという印象を受けます。トランプ大統領が「フェイク・ニュース」と称して展開しているメディア批判ははたして「批判」の名に値するものか、政治的言動のバリエーションと見た方がいいのではないかと私は考えますが。
翻って日本の場合はどうでしょうか。本書では各種の調査結果から「メディアを信頼する」状態から外れる者たちは「不信」よりは「無関心」に陥っていると指摘しているのが注目されます。日本ではニュースにはそこそこ関心があるもののメディア産業の構造への関心が薄く「メディア不信」はさほどテーマになっていない、ということのようです。
全体をとおして情報空間における商業主義の主流化とポピュリズムの台頭が共通項として取り出せる現象であることが明らかにされています。また日本ではメディアをめぐる議論に市民の影が薄いことが他の国とは異なっているのが特徴です。それはおそらく政治への無関心とパラレルの傾向でしょう。
また上でも少し触れたように、ドイツやアメリカにおける右派ポピュリストたちの言説がメディア批判を装っているのは他国でもみられるありふれた現象で、右派による政治的主張にメディアが敵役として利用されているような印象が拭えません。それらはメディアの問題という以上に政治問題としての要素の方が色濃いように感じられます。その意味ではメディアの努力だけではどうなるものでもなく(というより正当な努力をすればするほど右派ポピュリズムからは不興を買うでしょう)問題はよりいっそう深刻ではないでしょうか。
ちなみに私が個人的に抱いているメディア不信は、第二次安倍政権発足以降、おしなべて公権力を監視する機能も意志も弱体化している点に起因します。それこそメディアの本分に関わる問題ではないかと考えますが、その点に関するまとまった検証が行なわれているわけではありません。「メディア不信」と括られる現象のそれぞれのお国事情を知るうえでは興味深い事例も報告されてはいるものの、全体的には今ひとつピンとこなかったというのが私の正直な感想です。
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