大衆迎合主義に抗う〜『従順さのどこがいけないのか』
◆将基面貴巳著『従順さのどこがいけないのか』
出版社:筑摩書房
発売時期:2021年9月
「権威」として現れる存在に服従することや従順であることが要求される状況は、すべて「政治」だと著者は冒頭で言明します。そこで本書では、「政治」という現象について、「服従/不服従」「従順/抵抗」というキーワードを中心に考えていきます。
為政者やその時代の体制に対して従順であることを拒否するとすれば、その根拠となるものは何でしょうか。著者は三つの根拠を示しています。「神の命令」「自分の良心の声」「共通善」の三つです。
最後の「共通善」とは「人々が共通に善いものをみなすものであり、ある共同体全体の利益」を意味します。それは市民社会が成立するための基盤であり必要条件」だというのです。その対極にあるのは「自己利益」を優先するような自分勝手な振る舞いということになります。
同調圧力の強い日本では、とりわけ不服従や抵抗することの重要さは増します。著者は強い信念をもって、不服従や抵抗の重要性を説いています。「暴君による暴政を打ち倒すことによって「共通善」を防衛することこそが最も重要な政治的価値だ」と言い切るのです。その文脈で欧州の政治思想史に脈々と流れる「暴君殺害論」を力説するくだりは圧巻です。
暴君殺害論とは何か。政治思想の用語としての「暴君」は、「自身とその取り巻きや……ひいきにする人々の利益だけを追求することで、一般市民の利益を犠牲にする政治を行う政治的リーダー」のことをいいます。「ヨーロッパの政治思想には、伝統的に、この暴君を殺害することを正当な行為として認める傾向」があるらしい。古代ローマの哲学者キケロは『義務論』のなかで「暴政を敷く暴君を殺害することは正当である」と主張しました。ヨーロッパにおける暴君殺害論はそれを継承するものです。
著者は末尾で日本社会の「空気」や「同調圧力」の存在について再度言及しています。それらは大衆迎合主義を蔓延させました。一人ひとりが他人の挙動にばかり目をやる大衆迎合主義は、不服従や抵抗とは対極にある態度といわねばなりません。