愛を説くことと戦うことの関係〜『キリスト教と戦争』
◆石川明人著『キリスト教と戦争 「愛と平和」を説きつつ戦う論理』
出版社:中央公論新社
発売時期:2016年1月
キリスト教は愛と平和を説く宗教だと一般には認識されています。旧約聖書にはモーセの十戒のなかに「殺してはならない」との文言がありますし、新約聖書のルカによる福音書では「右の頬を打たれたら左の頬をも向けよ」と記されています。
けれども歴史を振り返ればキリスト教徒たちはそれらのことばに反して多くの戦争を行なってきました。宗教戦争と呼ばれるもののなかにはキリスト教が関与しているものも多くあります。
いったい彼らのなかで信仰と戦争とはいかなる関係にあるのでしょうか。愛と平和をうたうキリスト教の信者たちはどのような論法で戦争を正当化してきたのでしょうか。本書ではその問題を検証していきます。著者の石川明人はキリスト教の信仰をもつ宗教学者。
そもそも聖書には、平和と戦争をめぐって相反する記述があちこちに散らばっています。平和の大切さを説く一方で、信仰そのものを軍事になぞらえたような表現もまた頻出するのです。
……聖書という書物がやっかいなのは、著者も、書かれた時代も、背景も、目的も、それぞれ異なる実にさまざまな文書の寄せ集めによって一冊になっているものであるため、自分の主張したいことを正当化できる一文を抜き出してきて、聖書の権威によって自説を補強することが簡単にできてしまう点である。聖書は、戦争を否定するときにも使えるが、戦争を正当化するときにも利用できる。(p80)
ローマ・カトリック教会は武力行使に関して公式的にどのような見解を示しているのでしょうか。1965年の第二バチカン公会議で採択した『現代世界憲章』のなかで、戦争と平和の問題に言及している箇所をみてみましょう。
戦争の危険が存在し、しかも十分な力と権限を持つ国際的権力が存在しない間は、平和的解決のあらゆる手段を講じたうえであれば、政府に対して正当防衛権を拒否することはできないであろう。国家の元首ならびに国政の責任に参与する者は自分に託された国民の安全を守り、この重大事項を慎重に取り扱う義務がある。(p26)
こうした認識にたって正当防衛を基本とする武力行使を許される条件としていくつかの項目をあげているのですが、ローマ・カトリック教会が説く平和論は、全体的に教義との関連性が不明な点が多く、「これまで倫理学や政治学などの分野で議論されてきた、いわゆる『正戦論』に沿ったもの」だと著者は指摘しています。
宗教改革を牽引することになったマルチン・ルターは、戦争を全否定することはなく、むしろ時には「大きな不幸を防ぐための小さな不幸」として、人間社会の秩序を維持するために神の命じたわざであると考えました。その限りでやはり戦争を肯定しています。
時代を遡って中世のキリスト教文化と軍事についてもきわめて親和性の高いことを本書では明らかにしています。
修道院と軍事との関係について考察したキャサリン・アレン・スミスによれば、中世のキリスト教世界では、修道士の活動と世俗の戦士の活動とがパラレルに捉えられる傾向が強く、キリスト教の活動や組織は、しばしば軍事用語や軍事的比喩で説明されたといいます。
中世盛期の修道士たちにとって「戦争は単なるこの世の悪ではなく、自己認識へいたる道であり、キリストにならうための方法」でした。
そのような歴史を考えれば、現代の軍隊に「祈り」を専門とする要員を有していることは当然かもしれません。そうした宗教専門の要員を従軍チャプレンといいます。アメリカ軍では兵科としてのチャプレン科は特殊兵科に位置づけられていて、チャプレンにも士官の階級が与えられています。
兵士の内面を強化し支えるために、訓練や戦闘の場で広い意味での宗教的支援が行われることは、古代から現在までほぼ共通しています。その文脈でキリスト教が果たしてきた役割もまたけっして小さくないでしょう。
もちろんキリスト教徒のなかには、昔も今も平和主義を体現したような人びとが少なからず存在します。「キリスト教徒は、それぞれの時代状況のなかで葛藤し、人を殺したり、仲間を殺されたりしながら、戦争と平和の問題を考えてきた」のです。その葛藤からはある程度人間に普遍的な傾向を見出すこともできると著者はいいます。
現代社会では、戦争をいかに考えるかはとりわけ信者が暮らす国家社会のあり方に大きく依存しているともいえるでしょう。実際、現代日本のキリスト教徒たちはたびたび日本国憲法を引用して平和を訴えています。
私自身は特定の宗教を信仰する人間ではありません。本書を読んだかぎりでは、限定付きとはいえ戦争を肯定するキリスト教徒たちの主張に全面的に賛同できたわけでもありません。それでも自分とは異なった思考様式をもつ他者の考え方を歴史をとおして知ることは意義のあること。本書は初学者にも易しい記述で中公新書らしい一冊といえるでしょう。
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