映画や文学をとおして学ぶ法の原理〜『誰のために法は生まれた』
◆木庭顕著『誰のために法は生まれた』
出版社:朝日出版社
発売時期:2018年7月
法とはそもそも何でしょうか。何のために誰のために生まれたのでしょうか。本書ではその問題について根源的に考えます。ローマ法を専門に研究している木庭顕が桐蔭学園中学校・高校で行った特別授業を書籍化しました。
もっとも本書で検討される概念としての法は、専門家にとってはともかく、一般読者にとっては必ずしもなじみやすいものではありません。現実社会の法体系のようなものを意味するのではないらしいのです。
まず古代ギリシャの政治。徒党を組む人々がいます。徒党は個人に犠牲を強いて自由を侵害することがあります。そこで徒党や組織を解体しなければなりません。そのためには、人々が透明な空間で自由に議論することが必要です。ギリシャではこの意思決定のプロセスを政治と呼びました。
とはいえ個人の自由のために成立したはずの政治が個人の自由を脅かすこともありえます。そのような場合、人々はやはり連帯し、反自由の政治に対抗して個人の自由を回復しようとつとめます。政治が孕んでしまう病理に処方箋を与えるためには政治によるしかない。これがより高度の政治を志向したデモクラシーと呼ばれるものです。むろんデモクラシーにもまたデモクラシー自身を問い直していくプロセスが含まれるでしょう。
古代ローマでは、そのようなデモクラシーを受け継いで、より独創的なデモクラシーを発展させようとしました。そうしてローマ法が生み出されます。法は占有という原理をもちます。徒党をなして実力行使をしてしまった場合、実力行使をされた方が占有訴訟の原告となってそのことを主張して勝てば、相手の破滅をもたらしうるのです。占有原理を基本とすることでローマ法は個人の自由を擁護し、交易に必要な信用を確立しました。
古代ギリシャ・ローマで行われた政治と法は、ルネサンス期を経て近代ヨーロッパの基盤となりました。つまり近代国家の政治や法の体系は、遡れば、ギリシャ・ローマに行き着くのです。占有というローマ法独自の原理はその後、基本的人権として普遍化されます。日本の政治や法もその歴史的文脈に連なっていることはいうまでもありません。
……九条二項の考え方も新しいものではなく、実はローマで占有概念の或る発展段階で出てきたものです。一見占有侵害がなくとも自分の占有の内部を溶解させていれば、占有侵害と見なすというものです。近代初期の国際法の父たちもキケローのテクストからこれに気づきました。(p374〜375)
本書が異彩を放っているのは、以上のような政治や法の概念の学習するにあたって、法学とは直接関係なさそうな、映画『近松物語』『自転車泥棒』、プラトゥスの喜劇、ソフォクレスの悲劇などを素材にしている点にあります。
ギリシャでは、政治を可能にする新しい性質の社会組織が出来上がるときに文学が決定的な役割を果たしたというのが木庭の基本認識です。一見回りくどいやり方を採るのはそのような認識によります。授業でのやりとりは必ずしも理解しやすいものではありませんが、そこでの議論や検討によって教科書的に概念を覚えるだけで終えるのとは違った、感覚的身体的な学びの実感を得ることが目指されるのです。
というわけで本書の知見には教えられるところが多々ありました。
ただしその一方で澱のような違和感が胸中に沈んでいくような感覚も払拭できません。それは本書そのものに対してではなく本書が描き出した史実に対する違和感というべきかもしれませんが。
何より古代ギリシャやローマは厳然たる性差別や奴隷制が行なわれていた社会です。今日の価値基準から古い社会のあり方を批判するのはフェアではないといっても、本書で参照されている法の理念が当時の社会全体をカバーしていたわけではないこともまた事実です。特定の階層が特定の階層の自由をあからさまに抑圧していた国家の法理が近代法治国家の礎になっているという壮大な人類史のパラドックスには、いささか複雑な思いがします。
ちなみに本書は「紀伊国屋じんぶん大賞2019」の大賞(1位)に選ばれています。
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