権力を発生させないために〜『布団の中から蜂起せよ』
◆高島鈴著『布団の中から蜂起せよ アナーカ・フェミニズムのための断章』
出版社:人文書院
発売時期:2022年10月
アナーカ・フェミズニズム。アナキズムとフェミニズムを合体させる。高島鈴によれば両者は必ずしも相性が良いわけではなさそうです。労働問題と女性差別が密接に結びついていることを理解しないアナキスト栗原康に対して、そのフェミニズム軽視ぶりを批判するくだりは手厳しい。
高島が拒否するのは、マッチョイズムだけでなく、国家、家父長制、資本主義、天皇制、植民地主義、新自由主義などなど多岐にわたります。台湾のデジタル担当大臣オードリー・タンが「保守的アナキスト」を自称して、アナキズムの概念もずいぶん膨張してしまったと思ったものですが、本書が掲げるアナキズムもフェミニズムも要件が多く、そのぶんハードルは高くなっています。
むろん私のような凡庸な男性読者にとって、もろ手をあげて共感できるという本ではありません。だからといって酷評して終わりというわけでもありません。
近頃の読書感想文を読むと、意見に賛成できない=酷評という方程式を安直に採用しているケースをよく見ますが、それはおかしな話です。毎度おなじみの共感の輪の中に入って傷ついた心を癒やしたいというのも読書の効能の一つであることは否定しませんが、異質なものと出会った衝撃に戸惑うこともまた読書の醍醐味の一つでしょう。
そもそも本書については違和感と同じ程度に納得させられる箇所もたくさんあります。本書に対する一般読者からの批判はすでに多く出回っていますので、ここではもっぱら首肯できる点について言及してみます。
高島は「権力を発生させないためのあらゆる努力」を大切にします。それはアナキストでなくとも多かれ少なかれ考える社会運営上の配慮の一つでしょう。
「『ブレない』姿勢への一面的な賞賛をマッチョイズムのあらわれとして棄却する」という考え方にも同意したい。意見や認識が変わらないことを良しとするならば議論の意味はないし、ひいては民主主義の否定にもつながりかねません。これは先日紹介した東浩紀の『訂正可能性の哲学』にも通じるスタンスです。
「運動において「やったか、やってないか」を問い詰めるのは本当にナンセンスだと思う。……布団にうずくまる人をオルグできない革命は、私の革命ではない」という考え方も素晴らしい。本書にいう「革命」とは、卓袱台返しをして一気に社会を変えてしまおうとする企てではなく、日常の中からささやかな抵抗を積み上げていこうとするものです。
また明治維新に始まる通俗道徳の受容は自己責任論の受容だったという認識も卓見です。幕末から明治維新期に生きた人たちが信奉した「頑張れば報われる」という発想は、裏を返せば「報われていない人は頑張っていない」ことを含意してしまう。不幸な境遇はみんな本人の努力不足で説明されるようになったのです。
今では物事がうまく運ばないとき、一切の理由を自分自身にあると思いこむことが時に心身の失調をもたらすことはよく指摘されるところです。
哲学者の千葉雅也はSNSで「左翼的発想を広く伝え、理解してもらうには、左翼的な言葉選びを避ける必要がある」と述べていました。誰のいかなる言説に接してそのように発信したのかはわかりませんが、本書では「左翼的」な言葉選びをむしろ前面に押し出しているのが特徴です。良くも悪しくもそこにこそ本書の生命線があると思います。