詩とエッセイ 「遠い目」ーー引き揚げ者だった母ーー
詩「遠い目」
母はいつも 遠い目をしていた
少し細めたまぶたの中の
茶色いガラス玉のようなつぶらな瞳
ガラス玉には ちゃぶ台や箪笥や窓の枠が映っているが
それらは 母には見えていない
ガラス玉は動かないまま
どこか遠くを見ている
幼い私は 母の冷たく美しい横顔を注視する
いつものように 別世界にお出かけしている母の横顔
母の目には たぶん
遠い韓国の
地平線に沈む巨大な太陽が
どこまでも続く林檎畑が
見えていた
母の耳には
夜空を伝う 砧の音がこだましていた
朝鮮人集落の 市場の喧騒が鳴り響いていた
母はいつも 遠い目をしていた
編み物をしている途中で
不意に母はそこにいなくなった
幼い娘に昔語りをしている途中で
ふっと母は押し黙った
母の遠い目は 幼い私を孤独にした
母の無造作に結い上げた髪は ほつれていて
子どもたちにばかり食べさせて
母の身体は痩せ細っていた
美しい中高い顔は 骨格ばかりが秀でて
こめかみには 青白く静脈が透けていた
たくさんの子を孕み
たくさんの子を喪い
今は 三人の子育てに 夫との相克に やつれていた
母の遠い目に
私は映っていなかった
エッセイ「引き揚げ者だった母」
私の母は、日本統治下の韓国で生まれ育った。現地の高等女子師範学校を卒業し、小学校の教師をしていた。だが、日本が第二次世界大戦で敗戦すると、命からがら家族で日本へ引き揚げて来た。引き揚げ後は、福岡県の小学校で産休代用講師などをしていた。やがて父と出会って結婚した後は、流産が続いたため、仕事をやめて専業主婦になった。元来あまり丈夫な体質ではなかった。
母にとっては、韓国の大地が故郷だった。母を育んだ彼の地の風土――空が、地平線に沈む夕日が、乾いた風が、夜のしじまにこだまする砧の響きが、一人でこっそりのぞきに行った朝鮮人の集落の市場の風景や喧騒が、理屈抜きに、母にとって限りなく懐かしいものであった。
母国は日本だけれど、故郷は韓国。その意味で母は、日本では、終生どこかよそ者の感覚を抱きながら暮らしていたのではないだろうか。人が生まれてから20歳台初めくらいまでの年月を暮らした場所は、やはり故郷であるに違いない。
子どもたちを寝かしつけるために父が話してきかせてくれたのは、日本の昔話の数々だった。それらは、父の祖母が父に語り聞かせた民話が元になっていたので、熊本県風の味つけがしてあったものの、大半は「桃太郎」、「カチカチ山」、「猿蟹合戦」、「屁ふり娘」等々のオーソドックスな日本の民話であった。一方で、たまに母が聞かせてくれる昔話は、「三人娘(サンニャンツー)」という朝鮮の民話であった。母が日本の民話を語ったことは一度もなかった。
日本が統治もしくは併合していた当時の朝鮮半島の民衆の置かれていた状況について、不勉強な私は軽々しく語る資格を持たない。日本が彼の地に一定の近代化をもたらした一方で、さまざま屈辱的なこともあったはずだと推測するに留まる。また、在日の方々も、マージナルな存在として、さまざまな苦悩や葛藤を抱えておられるだろう。無論、二つの国の言語や文化に精通している強みを生かし、さまざまな分野で両国を股にかけて活躍なさっている方々も少なくないことだろう。
一方で、母のように、親の世代がたまたま日本から韓国に渡り、現地で生まれ育った日本人もまた、紛れもなくマージナルな存在だ。母は、韓国と日本という二つの国の間で引き裂かれ、結果として故郷を喪失した。
子どもの頃は、母の遠い目の理由は、生活の苦労のためだろうかと漠然と思い、胸を痛めていた。しかし、大学生くらいになり、日本と朝鮮半島の間に横たわる歴史的な問題について少しずつ知るところが増え、日韓・日朝・南北朝鮮の関係について思考が徐々に深まっていくと、母の目がいつも遠くを見ていたのは、そのような「故郷喪失者」であったことが深く関係しているのではないかと考えるようになったのだった。
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