「いつか必ず伝わる」という呪い
「真摯な想いは、いつか、必ず伝わる」と信じて生きてきた。
私にとって「理解」とは「愛情」と同意語だ。好きだから「わかりたい」。仲良くなりたいから「知りたい、わかりあいたい」。
相手が何を考えているのか分からず、関係が煮詰まったり揉めたりした時も、相手が友人でも仕事関係だったとしても反応的に、まず「理解」しようとしてきた。「理解」を着地点にして問題解決に取り組むのが私のパターンだった。
大人になれば、理解を進めてもうまくいかないことも、たくさんある。「ああ、全然違う価値観なんだなあ」と淋しくなったり、「結局、私がやりたかったこととは違うな」と納得したり、「本来、私が求めていたことはこれだ!」と奮い立ったり。結果は別れや諦め、前進だったり様々だった。「分からない」と解ったことで目から鱗が落ちたこともある。けれど「理解しようとする」行為そのものを打ち砕かれる、ということはあまりなかった。
でも、とうとうある人との間に長いことかけ続けようとしていた「理解」という名の橋から手を外した。
「わかり合う」ことを諦めよう。もういい。何も言わない。どうぞ、ご自由に。数年にわたる揉め事の結果、私が選んだ着地点は「理解」を諦める、ことだった。
相手は弟だ。
2歳年下の弟を私は子供の頃から「猫可愛がり」していた。大好きだったし、両親が共働きということもあって、幼い頃は長い時間を共に過ごした。夏休みや冬休み、春休みも、いつも一緒に朝から晩まで過ごした。学校から帰ると、私たちは再放送の刑事ドラマを見て一緒に盛り上がりおやつを食べた。私が高学年になるまでは2段ベッドの上と下で寝ていて、下から足でマットを蹴り上げると「もっともっと」とせがむので、飽きるまで何度も何度もやって、あげた。
しっかりしたお姉ちゃんと、ヤンチャな弟。母親が忙しかったぶん、弟はハメを外すことが多くて私はそれを母親気取りで叱っていた。私に見つかると、弟もまずい、という顔をする。私はそれを、母親に言いつけたことは一度もない。それが鍵っ子姉弟の絆みたいなものだと思っていた。
「どっちにも行かない。弟を連れて家出する」
両親は喧嘩ばかりしていて、母親はよく私に聞いた。「パパとママが別れたら、どっちと一緒に住みたい?」私はいつもこう答えた。「どっちにも行かない。弟を連れて家を出る」と。そう言えば、母がそれ以上この質問をしないと解っていた。でも、本心でもあった。
そんな風に私たちは育っていった。「なんか、違うな」と感じたことはあった。おそらく相手もそうだろう。でも、顔を合わせる時は大抵親もそばにいて、それぞれ親との喧嘩も多々あったので私たちが直接顔を突き合わせて揉めるということはあまりなかった。弟が窮地に陥り泣きつかれて、父との間に入ったり罪を被ったこともある。だから、仲が良いと思っていた。
ところがこの数年事情が変わった。私は結婚して家庭を持ち、弟は独身のまま、両親の老い、介護、父の死、遺産相続という大きな岐路が訪れた。どの事案も、互いの本音をごまかせない。当たり前にあったものがグラグラと崩れ落ちていった時、私たちの態度や考え方は驚くほど違っていた。父がいなくなり、初めて互いの本当の姿が見えたのだ。
揉めたくなかった。
お互い協力しあって乗り越えたい。だからこそ、私はその度ごとに言葉を尽くした。自分の思いを、わかってほしくて。そして、彼の思いを聞こうとした。
話せば話すほど、彼は黙ってしまう。時々、至極他人行儀なメールや手紙が来る。そこには、全く私の意見が反映されておらず、私の意見を受けいられないという結果と「ご了承ください」だけの文字。理由も、何もない。
私は怒る。「これだけは譲れない」ことを慇懃無礼、と言ってもいいくらい他人行儀にメールを書く。
返事が来る。「そういう意味ではありません」とか「ご理解ください」の文字。はあ?理解してもらおうという努力しないで「ご理解ください?」また私が怒る。イライラして家族にあたる。これではいけないと思い、相手の意見を呑む。気持ちは離れる……ということを繰り返して、疲れきってしまった。
病院の対応に不信がある場合は、私はすぐに行動する。もっといい病院はないか、別の治療は考えられないか、手を尽くして探したり知人に意見を求めたりネットや本の情報を漁るように読む。何もしないでいる、ということは不安でできない。
けれど弟は変化を嫌う。「変えてもっと悪くなったらどうする?このままじっとしていたら、良くなるかもしれない」と考える。
話はいつも平行線で時間だけが過ぎてしまったことを今も臍を噬む思いで振り返るけれど、弟は「仕方ない、寿命だよ。いい方だよ」と納得している。
父の病気をめぐる話も、その後に起きたことも、だから、全て話は噛み合わない。
揉めるたびに私は考えた。どうしてこんなに会話が成り立たないのだろう?何故こんなに平行線なのだろう?
弟は私から見ると、岩の壁のように頑なで、全く私の言葉が入っていっていないのがわかる。拒否されている。それがさらに私を悩ませた。私、何かした?何か、悪いことした?
「理解しよう」は苦痛を与えていた。
どこでおかしくなってしまったのだろう?一体、私は彼に何をしたのだろう?あそこまで頑なにさせてしまうほどの何かを自分はしてしまったのだろうか?
ずっと、答えが出なかった。いったい、私は何をしたのだろう?何を間違えたのだろう?どこが悪かったのだろう?
そして、はた、と気がついた。そもそも弟は理解を求めていない。わかりあいたいとも思っていないのだ。
それなのに、私は私のやり方を変えることができなかった。揉めても揉めても「いつか伝わる。必ず伝わる。」わからせてみせる、と思っていた。今までの成功体験が、私を縛った。それはまるで呪いのように私から柔軟性を奪っていた。
弟は、最初から私の意見に興味がない。彼の中にはすでに「結論」があって、私がそれに賛成なら良し、反対なら「ご理解ください」それだけなのだ。
ああ、そうか!求めていないのか。求めていないのに、「わかり合おう」とか「相談しよう」とか言葉を尽くされる。それは、苦痛だったろう。ああ、そうだったのか……。
そりゃあ悪かったね……こんなに長い付き合いで、ずいぶんいろいろなことをしゃべったり、一緒に遊んだりテレビを見たり、お酒を飲んだりもしたのに。全然気づかなかった。理解していないのは、私の方だったんだね……。
同じ両親に育てられて、同じ環境にいて、育つ様も側で見ていたから「君のことなんて解っている」とハナから決めつけていた。でも、全然解っていなかったね。
同じ場所に立って、同じ夕陽を見ていても相手の胸に宿る思いは見えない。君は、全然別の景色をいつも見ていたんだね。さっき、私は弟を寝かしつけていたときの話を書いた。やって、あげた。と。母親気取りだったとも。彼にとって私は、恩着せがましく自分の知識をひけらかす、姉のくせに母親のように振る舞う存在だったのだ。
多分、母親から「パパとママとどっちを選ぶ?」と問われて「弟を連れて家を出る」と言ったのも彼にとっては迷惑だったのだろう。
子供の頃、もっと喧嘩をしておけば良かった
もっと、「あんたばっかり可愛がられてずるい」とか「どうして成績の良い私よりもあなたの方が優遇されているの」と言えば良かった。無理して「私はお姉さんだから、弟を守らなくちゃ」なんて思わなければ良かった。「両親が喧嘩をしているところを見せちゃいけない」と庇わなければ良かった。
そうしたら、自分たちは仲の良い姉弟だなんてという誤解はせずに済んだだろう。「うちは親も姉弟も仲悪いんだ」と開き直ってガハハ、と笑いとばし、大学を出たらさっさと家を出てしまえば、「早いうちに家を出た」負い目から、弟に何も意見せずもっと任せただろうし、淡々と合理的に話し合いを済ませることができたのではないだろうか。
エニアグラム、という性格心理学では私は思考センターに振り分けられるが、思考センターは人との関係を「理解」から始めようとする傾向がある。私にもその傾向は顕著だし、それが良い方法だと信じ込んでいた。でも、そうではない人もいる。それが、こんなに近いところにいたなんて。
私が猫可愛がりしていた可愛い弟、はどこに行ってしまったのだろう。最初から、幻想だったのかもしれない。母親との様々な事情から、私はあの頃、そうしなければ生き延びることができなかった、という別の話もあるのだけれど、それはまた、別の話。
私が生まれた家での記憶を、弟はない、というが、私はあの家にいた弟も覚えている。あの古い借家では、私は確かに幸せで、弟は天使のようだった。今、長年かけようとした橋から手を離し、呪いを解いて、その思い出だけが残っている。