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チョーク&トークは悪か
チョーク&トークのクラシカルな授業形態が批判され、否定され、悪者扱いされ始めて随分経ちます。
なんなら、私が教壇に立つ前、教育実習を受けていた頃が、「支援」という言葉の流行り始めだったように記憶しています。実習先の教頭が、熱く語っていました。これからの時代は、指導ではない、支援なのだと。
以来、ずっとこの言葉に半分違和感を感じ続けていました。なるほど、という気持ちと。本当にそうかな、という気持ちと。
それから30年の歳月が過ぎて。
研究授業を参観すれば、そこには「アクティブラーニング」だったり「対話的で深い学び」だったりが、判で押したように繰り広げられていて、児童同士の討論タイムが入ってない授業は魔女狩りのようにけちょんけちょんに叩かれます。教師の押しつけや誘導に見えてしまうものは、もうNG。何だかもう、宗教のよう。手段の目的化が激しいです。
私は何も、「対話的で深い学び」や「言語活動」が悪いと言っているのではありません。それが目的化していること、そして、そうでない授業形態を一概に悪と見なす思考停止な風潮に、異を唱えたいだけです。
研究授業で見る、子供たちの討論。必ずしも、深まっていません。必ずしも、新たな視点の発見に至っていません。それはそうです。課題によっては、子供たちの経験が似たり寄ったり。3人寄れば文殊の知恵と言いますが、3人集まろうと10人集まろうと、新たな知恵は出てきません。
半数の子は、「そんなこと自分に聞かれても…」と困惑。
もう半数は、親との対話、習い事で聞いたこと、本や子供新聞などで読んだストックの中から、ここぞとばかりに見識を披露する。
教師はしきりにアウトプットを促し、子どもたちはなんとかひねり出さねばと焦り、大人っぽい意見を言う子に同調していく。
そうして、経験に裏打ちされない絵空事な意見が並び、授業はちゃんと形になる。でも、それは本当に深まったのでしょうか。本当に、それを討論と呼んでいいのでしょうか。
そんな授業をするくらいなら、私は、腕のいい教師がちゃんと新たな学びや新たな視点を提示する、討論レスな授業の方がはるかに優れていると思います。
子供は、なぜ子供なのか。もちろん、まだ経験が乏しいからです。
そんな子供たちに意見を求めたところで、実体験をもとにした、地に足のついた意見がどれほど出てくるか。想いがあったとして、どれほど、それを表現できる語彙が備わっているか。討論によって高められるほど、多くの選択肢を知っているか。
そこまで子どもたちにレディネスが出来上がってない場合、子どもたち同士の討論より、教師と丁々発止でやりあっている方が、よっぽど良い学びになるとおもうのです。
でも、そういう授業は「子どもたちの自主性を生かしていない」と、けちょんけちょん。討論っぽいことしたら、それが自主性ですか。自主性って、そんなに安っぽいものなのでしょうか。
子供を尊重することは、悪くありません。私も30年間、一人一人の子供と真摯に向き合い、尊重してきた自負はあります。
問題は、尊重しすぎていないか、ということです。言い換えれば、教師が謙虚になりすぎていないか、自信を失いすぎていないか、弱腰になりすぎていないか、ということです。
私でいうなら、目の前の子供たちより40年間長く生き、その40年間にはそれなりに凄まじいあれやこれやがありました。もがき、傷つき、試行錯誤し、失敗し、悔い、そうして手にしてきた、「生きるとはどういうことか」という問いの答え。そういうものを子供らに手渡すのが、先生、つまり先に生まれた人間の使命なのではないでしょうか。
それを、全て子供らに委ねて、教師は対岸から見ている。「個性」とか「オープンエンド」とか聞こえはいいけれど、大人には大人の、もっと積極的に関わる責任があるのではないでしょうか。
「考えが浅いよ。」
「それで十分かな。」
「そんなに簡単に解決するかな。」
「そんな簡単そうなことが、大人たちはなぜ出来ないんだろう。」
私は、介入したい。借りてきた言葉で満足している子供らに、もっと葛藤させたい。格好いい答えにまとまらなくていいから、もっと揺さぶりたい。それで、たとえ参観者から「先生が介入しすぎ」「もっと子供らの自主性に委ねないと」なんて批判されたとしても。
いろんな意見があっていいと思います。私も、討論を取り入れた授業で素晴らしいものも見てきました。でも、機能していない、深まっていないものの方が多かったように思います。
要は、是々非々。チョーク&トークが間違っているわけではないし、討論していれば素晴らしい訳でもない。本質を見る。その目を我々教員が養いましょう。・・・というのが今回の結論です。
授業の質は、何人の子供が、何回発言したかで測るものではない。将来の伸びにつながる要素を、子供たちの人生を支える何かを、子供たちがどれだけ手に出来る機会があったか、で測るべきものだと思うから。
我々教員、上から下りてくるかっこいいキャッチフレーズを、有難がりすぎていませんか。「生きる力」とか、「対話的で深い学び」とか、「アクティブラーニング」とか、「ユニバーサルデザイン」とか・・・。