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生きること、学ぶこと


「しびれ」とはどんな感じか?



〜苦悩という情動は、それについて明晰・判明に表象したとたん

苦悩であることをやめる。(スピノザ「エチカ」)〜



抹消神経が自己免疫障害でやられる難病がある。症状として、身体のいたるところにしびれが出る。しびれは、段々と強くなり広がることが多い。
しびれの状態について医師から質問される。

さて、ここからが問題である。

しびれをどのように言葉で表現するか?

ピリピリする。ビリビリする。シャワシャワする。ザラザラする。チクチクする。ジリジリする。ジーンとする。砂が張りついているようである、締め付けられる。痛い。どんよりする。ぐったりする。重たい。

どれも患者が使うことばである。しかし自分の感じていることが伝わることはほとんどないだろうと思う。個人の身体感覚を共有することはとても難しい。

そこで考える。

顔の口周りや舌のしびれはどうか?
鼻の下から口周りが痺れると、突っ張ったように感じる。そのため、話をするときに、顔がこわばっているので自由に動きにくくなる。言葉を普段のように滑らかに発することが出来にくい。相当意識して話すことが必要になる。

舌のしびれは、食べ物に触れると、舌のしびれが強くなるので、食感は悪くなる。喉を食べ物が通ってから、舌の痺れ感だけが残り、食べた気がしない。時に異様な感じが後から襲う。これも同病の患者と共有できた。

手首から先のしびれであるが、手のひらとこうでは違う。指先も違う。指先はいつもジーンとしている。手のひらのがしびれているとき、他の人の手を触るとどう感じるか?手に砂がついているように、ざらざらしている。触った相手に聞くと、すべすべしていて変わらないという。不思議なのは、自分の指同士を触ると、スベスベなのに。

なるほど、手のしびれは、ほかのひとの手に触ると、本来すべすべしているものが、砂がついたようにざらざらと感じる、という表現は共有できる。

熱いコーヒーなどのカップは、しびれた人の手のひらには敏感に感じるので、普通の人が持つことができるものが掴めない。熱いタオルも持てない。

足の裏のしびれも場所によって違う。足指は、手の指と同じく、いつもジーンとしている。土踏まずは何も感じずに硬くなっている。踵や足裏の周りも硬くなっている感じである。長時間座っているとき誰もが経験しているが、なんとも言えないあの感じとは全く別である。患者からもいろいろな表現が出る。砂やジャリを何層にも足裏に貼り付けた感じ、ウォーターベッドの上を歩いているようなブヨブヨ感。

腕や腿、脹脛のしびれはまた違う。締め付けられるような感覚である。
手先や足裏のしびれとは全く異なる。マッサージしてもらうと気持ちが良くなる。シャワーを浴びると、シャワーの圧力でしびれているところが、強く押される感じがして怖い。これも、周りの人と共有できる表現ではないだろうか。

締め付けられるしびれの例では、胸や胴体の場合も同じである、こちらは、呼吸する時に空気が十分に吸えないような気がするという表現もある。

この症状は1年ほどで、こうなってきた。

なんでこんなことを考えるのか?

自分の感覚を共有してもらうことで、ストレスが発散されるからである。生きていることを確かめたいからである。

そこで、せいぜい、同じ患者同士で話し合って、「ナルホド」感を共有するのである。覚醒している時は、常にこのしびれを意識せざるを得ない身体(脳)をもった人間として、前に進むためのエンパワーにするためである。どのように生きるかにも耐えるためである。

人間は、苦境になり未来が見えなくなると内的思考に陥る。日常の一々に反応しなくなり、無価値化していく。自己放棄になると生きることも死ぬこともわからなる。だから、ほんの些細なことでも(しびれの感覚の共有化)、主体的に考えることがインセンティブとなる。






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