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予定説をめぐって

 
ワインクープ著、大江信訳
『ウェスレアン=アルミニアン神学の基礎』
福音文書刊行会、1972年

上掲書をテキストにして、予定説について学びます。


  

このノートの目的


カルヴァンは「神はある人を救いに選び、ある人を滅びに選んだ。」という《2重予定説》を提唱しましたが、

それに対して、オランダの神学者アルミニウス「神はすべての人を救いに招いておられる。救われるかどうかは各個人がその招きに応えるかどうか、各個人の自由意志による。」と主張しました。


メソジストのみならず福音派の多くの教会は、予定説に関しては、このアルミニウス主義(=アルミニアン)の立場を取っています。

※「各個人の自由意志による」ので、親の意思や教会の伝統による小児洗礼(幼児洗礼)を否定しています。

ここではアルミニウスに至るまでの大雑把な思想史を学びます。

 

カルヴァンの予定説の原因

 
それでは、カルヴァンはなぜ救いは神の聖定によると主張したのでしょうか?

それは当時のローマ・カトリック教会に原因があるからです。

当時のローマ・カトリック教会は、
救われるかどうかは教会が決められると言って、贖宥券(免罪符)を売って、買った者は天国に行けるけど、買わない人は地獄に堕ちるなどということを平気で行いました。

それに対して、ルターやカルヴァンが反旗を翻したのです。




アウグスティヌスの主張と問題点


アウグスティヌス(354〜430年) は、
カトリック・プロテスタント両方の教会を作ったと言われています。

どういうことかと言うと、
アウグスティヌス自身の主張に、彼自身も解決できなかった相互矛盾があったからです。



【主張1】

すべての人間は原罪を持って生まれてくる。
すべての人はアダムが罪を犯したときに、アダムのうちにあった。
したがって、すべての人は(神に逆ら う)悪しき意志をアダムと共有している。(『ウェスレアン=アルミニアン神学の基礎』p.38。以下ページ番号はこの本のページ番号を表しています。)

しかし、救いは、ただバプテスマによる。(小児洗礼は子どもに救いを保証する。)p.39

バプテスマを受けることによって、アダムの罪の系譜が断ち切られ、
キリストの系譜に接ぎ木され、神の子として生まれ変わることができます。

そして、バプテスマを授けられるのは教会だけですから、
結局、教会が救いの恵みを授けることができる――教会の外には救いはない――という結論に達するのです。


ローマ・カトリック教会は、
アウグスティヌスのこの主張だけを切り取って、自己弁護に利用したのです。

バプテスマによって救われるのは、
カトリックもプロテスタントも同じです。

バプテスマによって救われるのであって、贖宥券(免罪符)によって救われるのではありません。 

カトリックの主張は論理のすり替えです。



【主張2】

ところが、アウグスティヌスは、もう一つ別の主張もしています。 

神が救おうとされる者は救われ、決して失われることはない。(p.40)

人間の回心は神の恩寵によって引き起こされる。この恩寵を人間は拒絶できない。(p.40)

神は特定の人々を救いに選ばれた。残りの者は罪の中に放置される。
 (pp.40〜41)

これは、カルヴァンの《二重予定説》につながる考え方です。


カルヴァンについては、後述しますが、アウグスティヌスの予定説は、
個人的予定は、聖書的教理ではなく、推論の線に沿った結論でした。

神の聖定を救いの第一原因とし、キリストの死を補助的・2次的なものにしてしまいました。

神の聖定による救いの場合は、
キリストは救いに絶対不可欠な御方ではないのです。

これはカルヴァンにも共通します。


それに対して、キリストによる救いの場合は、
キリストは救いに絶対不可欠な御方です。 
プロテスタントの中でも、福音派のほとんどの教会はこの考え方に立っています。


※救いは神の選びのみによるのか、
キリストの贖罪とそれを信じる信仰によるのか、
教会の権威によるのか。
アウグスティヌスの中には、この相矛盾するような考えが同居しており、
彼はこの矛盾を解決できなかったのです。




カルヴァン


カルヴァンの功罪


ジャン・カルヴァン(1509〜1564年)の業績として、忘れてはいけないのは、何と言っても『キリスト教綱要』の執筆と出版であろう。

当時のプロテスタントは、神学校も教理書もまだ無かったので、
指導者のもとに行って教えてもらうしかなかったのです。

ちょうどそんな時に指導書として出版されたのが『キリスト教綱要』(以下『綱要』と略す)でした。

しかし、アウグスティヌスと同じように、『綱要』は推論から論理的に考えられ組織立てられた成果であって、
聖書の釈義によって引き出され、決定されたものではなかったのです。(p.54)

カルヴァンは、前述したアウグスティヌスの結論(神は特定の人々を救いに選ばれた。残りの者は罪の中に放置される。)からスタートしています。 


また、アウグスティヌスは「滅びへの選び」は強調しませんでしたが、
カルヴァンは救いへの選びと同じように、滅びへの選びも強調したのです。


しかし、私たちが正しく理解しておかなければならないことは、
カルヴァンの予定と選びの教理は、「善行や功績によって各個人の救いが決まる」というカトリックの考え方を否定するためでもあったのです。

そして、またカルヴァンは、数多くの説教や講解(釈義)も残しています。
そこでは、人間の道徳的責任や社会的責任も認めています。


しかし、前述のアウグスティヌスにも見られるように、カルヴァンにおいても、「救いは神の聖定によって選ばれ予定されている」という予定説は、キリストが第二義的になり、必ずしも必要なものではなくなってしまうのです。(p.62)

つまり、人間はキリストによってではなく、神の聖定(意志)によって救われるということになるのです。 


カール・バルトは、神の聖定の教理は、人々をキリストから離れさせると言っています。




アルミニウス

 

アルミニウスの生涯


ヤコブス・アルミニウス(1560〜1609年)は、オランダに生まれ、最初ライデン大学で学びました。その後、アムステルダム教会の牧師になるために、ジュネーブ大学に留学しました。

彼はジュネーブ大学で、かなり過激なカルヴァン主義者であるベザからも学びます。

その後、彼はアムステルダム教会の牧師として任命され、講解説教者として好評を得ました。 
 

そんなある日、一つの出来事が起こりました。平信徒でもあったコルンヘルトがカルヴァン主義に反旗を翻したのです。

コルンヘルトが論じたのは、神がある人を滅びに選んだとすれば、神は罪を引き起こさせる、罪の創始者になってしまう。聖書はそのようなことを教えていないというのです。

アルミニウスはコルンヘルトの主張に反論すべく、カルヴァン主義を護るように選ばれ任命されたのです。  


アルミニウスは聖書、特にローマ書を徹底的に学び直しました。
しかし、ローマ書を学べば学ぶほど、ベザの教えは、パウロの主張に反するということに気づきました。
アルミニウスは「救いは信仰によるのであって、聖定によるのではない」という結論に達しました。

彼はさらに古代教父文書や教会史も研究し、カルヴァンの「二重予定説」も教会で公に受け入れられてはいなかったということも示しました。

彼はローマ書の連続講解説教を行いました。彼の反対者たちは彼に反論することはできず、彼の陰口や根拠のない悪評を流布することしかできなかった。


アルミニウスはライデン大学の教授になりました。

彼は

「神のことばに権威があるのであって、人間の意見にあるのではない。神が言わんとしていることを発見するのが人間の義務である。」

前掲書(p.71)

と言いました。

また、彼は聖書を正統信仰の唯一の基礎とし、

人の言葉(カテキズムや信仰告白など)は神のことばに勝るか」

「キリスト者の良心は、神のことばと人間の言葉のどちらに従うべきか

という問いを投げかけました。



アルミニウスの諸原理


予定の教理は聖書的であるべきで、最初に哲学的、論理的であってはならない。(p.74) 

救いの源泉は神の聖定ではなく、キリスト(による贖いの業)である。(p.75)

救いは、キリストを信じる個人的信仰による。(p.75)



アルミニウスの予定論


神は、御子イエス・キリストを、その死によって人間の罪を破壊してしまうために選ばれ、任命された。(p.75)

人間個々人が救いに選ばれているのではなく、
救いの道だけが予定されている。

強調点は人間個人の選びではなく、キリスト(による救いの道)である。


神の聖定が救いの門ではなく、 キリストが救い主であり、救いの門である。(以上 p.75) 

そして、神は誰がキリストによる救いを受け入れるかを予知しておられ、
キリストによる救いを受け入れる人に、救いの道を示される。


誰でも、キリストに立ち帰って信頼することができるように、すべての人に恩寵(先行恩寵)が与えられている。 
この恩寵によって、信じる力が与えられている。信じるのは人間である。
(p.77)




キリスト教倫理


カトリックでは、善い行いが救いの条件であったので、善行を行う動機付けになりました。

ところが、カルヴァン主義では、誰が救われるか、滅びるかが神の聖定によって決められている。
よって、救いに選ばれ(洗礼を受けた)た人間は、悪い行いをしても、救われていると信じ、悪いを平気で続ける可能性がある。
そしてカルヴァン主義では、福音宣教への情熱も奪い取ってしまう。(p.80)


しかし、アルミニウスは神が恩寵によって愛と道徳的力を注いで、善き行いを続けさせてくださるのです。


〜〜〜 つづく 〜〜〜
















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