ろるけ哲学
生きるということ。
僕らは生きている。そこに意味をつけてもいいし、つけなくてもいい。
都合の良い方を選べばいい。
何かを成し遂げるために生きる。
いわゆる成功者になるためには、正義感を持つと都合がいい。
正義感は人を無我夢中に突き動かし狂わせる効果がある。それを自分のモチベーションのために活用してもいいし、狂ってるように見える他人の正義や宗教感を想像してみるのもいい。
何も成し遂げなくてもいい。
無責任だろうが、バカだろうが、誰かを泣かせようが。刑務所に入るのも苦しみを味わうのも何もかも仕方のないことだ。DNAや生まれ育ちや時の運などの偶然にそういう状況が起こることもあるのだから。
ただ人間という生き物として、自分やその周辺のために都合よく生きてればそれでいい。
社会に対する責任なんて、たった一人の人間が背負うようなモノじゃない。
幸せと夢
幸せとは現状維持のための感情だ。夢とは現状打開のための願望だ。
そしてこれはあくまで感情という本能が生んだモノであり、幸せであることは人生の正解ではない。また、夢を目指すことが正解ではない。
幸せであることはただ幸せであるというだけだ。それで未来が明るくなるわけでも明日の飯が出てくるわけでもない。
夢を目指すこともまた、そこに夢追い人がいるだけでしかない。目指すだけ努力するだけで手に入るなら、一体どれほどの人類がサッカー選手になっていることだろうか。
僕は保育園児の頃に「サッカー選手になりたい」などと言った。それを目指してなどいなくて本当に良かったと思う。
自分の無知の程度が量れぬうちは夢など目指すべきでない。
ただ趣味に励み、目の前に訪れる多種多様なチャンスを逃さない方が大切だ。
凡人には、選べるほどのチャンスなんて訪れないのだから。
金と信用
金は小銭ほど出し惜しむな。そして大金ほど出し惜しめ。
何かあった時や人間関係や趣味仕事などで生じる「特別な出費」というやつを全力で出し惜しまなければならない。
「何か必要な時のために貯金をする」という考え方をしていると、金は貯まらない。必要な時などいつでも訪れるからだ。
金は人間の信用を表すモノだ。貯金がないということは信用がないという意味に近い。貯めたまま使わないことに、金額相応の価値がある。
正義と悪
人は何かどこかに悪者がいないと気が済まない生き物だ。
しかし大抵、人とは悪意などを持ち合わせていない。
そこで、罪人や自己利益のために行動する者などを見かけると、人はそれを悪意であると勘違いし、攻撃的になる。
あるいは誰かの正義が自分の正義に反した時、戦うことを選ぶ。
人は正義に酔ったときのみ、危険な行動をする。
それこそが大抵の悪の正体であり、同じ正義を信仰し続けることが危険だ。
特に歳を重ねるほどにこの正義感が強くなり、寛容さのない愚か者になる。
炎上
人はいじめを「悪だ」と言う。そして、いじめる者を加害者と呼ぶ。
いじめられる対象も大抵愚かではあるのだが、正義や多数派に浸り騒ぐこともまた正気の沙汰でない。
正義など、わざわざ主張するほど珍しいモノでもないだろうに。
平和であること
平和は緩やかな衰退をする。そして争いが進歩を生む。
しかし真の意味での平和のためには進歩が必要であり、恒常的に進歩するためには平和が必要である。
誰かが進歩した時、周りも進歩しなければ搾取が始まる。
進歩しない者はすぐに敗北者になる。
これは国のことでも、小さなオフィスでも同じことだ。
平和や平等を主張しすぎるのも危険なのだ。最近は平和主義者が多く、衰退がひどく目立つ。
静かに争い、衰退に怯えよ。
例に漏れず僕も平和は好きだ。進歩のために争って何かを失うくらいなら、緩やかに衰退を続けている方が幸せだ。
しかし平和に甘えて、その平和の悪影響の存在に目を瞑ってはいけない。そこから平和は崩され、別の者が平和を手に入れる。
また、仲間でない者が進歩をするということは、それだけ自分が衰退する要因になる。
衰退に怯え、他人の進歩に気づき、平和という有利なポジションを確保したままに彼らと静かな競争をして生きていこう。