【ここにあることの意味】広島県立美術館 コレクション展 第1期 光と風の世界
お昼すぎに広島市現代美術館から広島県立美術館へ移動をする。
山を下る途中、曲がりくねった細い道に不安になりつつ、ちょうど警官が立っていたので道を尋ねた。市電の駅に向かいたかったので、
「この道降りれば駅に出れますかね?」
「駅…?」
「ええと、市電の…」
「あっ(察し、はい、ここ降りた突き当りの大通りはレールがあるので右へ行っても左へ行っても電停あります」
「でんてい…あ、市電の駅のことですね、ありがとうございます。」
(市電はバス停のようなニュアンスなんだな)と思いつつ先を急いだ。
今、このやり取りを思い出して、そういえばなんであんな藪蚊だらけの道にぽつんと警官いたんだ?と調べたら歩いた道の脇に総理の家があった。
なるほど。いわくつきのかの地だったのか。
しかし不用意に警官に話しかけてしまったけど黒い大きめバック持ってたし(旅行者だから当たり前だが)、これ、私から話しかけなかったら職質案件だったんじゃなかろうか…
道わからないから挙動不審だったし、平日の真っ昼間、自分以外歩いている人間は皆無だった。
まぁそんなこと、今、これを書きながら知った訳で。
とにかく市電に乗って、途中乗り換えながら20分ほどで広島県立美術館へ。
ファザードはあまり大きくなく、わりとこじんまりした施設かな?と思って入場したら内側は吹き抜けのある大きな空間を持つ美術館だった。
コレクション展 第1期 光と風の世界
まず、広島にゆかりのある作家のハイライト展示から。地域に縁のある作家の作品が近代〜現代につづく。
しかし…やはり1945年8月以前・以降で残っている作品の重さが違う。
作家が描いている作品のテーマもそうだが、1945年8月以前の作品は東京国立近代にもあるその時代のテーマや雰囲気など作品に大きな違いはない。
1945年8月以降の作品になると、例えば東近美では解放や自由のような印象の作品が並び始めるが…
広島県立美術館には祈りや追悼、未だ続く重さを感じる作品が静かに展示されていた。
目を見張ったのは靉光
そうか、ここにあったのか。
東近美でおなじみの作品、遺作と言われる「自画像」は多くの人の記憶にあるのではないだろうか。近年は修復の方向性も議論され、開示されてた。
その、自画像よりも前の作品。
こういう作品を見ることができるのも出身地作家ならでは。
靉光のその後を考えてしまうと、絵の前にいても画面以外へ思い巡らすことが多くなる。
ここに描かれた人は、どこへ行ったのだろうか。
作者は故郷の状況をどう知ったのだろうか。
ぼーっと画面を見ていた。
1946年上海で病疫死し、戻ってきた遺品は飯盒だけだった、という靉光。
1945年4月に戦死した私の祖父(父方)のことも思い出した。祖父の遺骨は祖母が渡した香水の瓶と一緒に戻ってきたそうだ。「だから本物の遺骨!」と祖母が誇らしげに話していたな。(遺骨が戻ってきても実は誰のものとも分からない野ざらしのそれを気休めに骨壺に入れられて戻って来るケースが多々有った時代だ。DNA鑑定なんかもできない時代)
1943年生れの私の父は自身の父のことを知らない。
この地で残された美術はもうそこにあるだけで奇跡に近い。
こうして見に行ける場所へは自分の目で見ていきたい、と強く思った。
ダリもあるよ
さて、この広島県立美術館の目玉作品にはダリがある。
なんで?という疑問符が。
https://www.hpam.jp/museum/wp-content/uploads/2023/12/2023第4期所蔵
この資料によると
90年代中頃、県立美術館リニューアルに向けて購入された作品だそうだ。
シュールレアリズム作品の大型品を購入、というのもなかなか珍しい方向性。ダリの代表作とも言って良いような溶ける時計がばっちり描かれた絵画。
これはニューヨーク万博のブースに出された経緯のある絵で絵画の辿った歴史としても面白い。
こんな良品が拝めるなんて…ここまで旅した甲斐があるというものだ。
自慢できる品があるのは良いことだ。
1993年に千葉県美でデ・キリコ展をやっていたのをみると、シュールレアリズム宣言○○年!とか周年祭みたいに美術界隈でも過去の美術運動の掘り起こしやらなんやらに、作品収蔵に影響するのだろうか。
単にその時代の作品が多い、ということもあるのかも知れないが。1993年だとシュールレアリズム宣言から70年ぐらいか。昨年から今年にかけて各地で100周年として、作家が取り上げられたりするのを見るとキュレーションのリバイバルや周期というのも見ていくと面白いのかもしれない。
県立美術館の立地
縮景園(しゅっけいえん)という江戸時代からあった庭園の横に位置する広島県立美術館。
江戸時代からという記載に「?」となり調べると、江戸時代からあった庭園は爆風で壊滅。僅かに残った絵葉書や資料から、戦後30年かけて復興した庭園とのこと。
この縮景園には大正時代に観古館という美術館の様な役割をした建物もあったと言う。これが国内初の私立美術館とも言われているのだ。1940年まで存在しその後県に寄付された、収蔵品は一部散在、その5年後1945年の8月に壊滅、という記載が館内にあった。
しかし奇跡的に焼失を逃れ今も残る品が120点ほどあることが2017年に判明したそうだ。
観古館の門柱だったものは爆風に耐え、その後、県内の中学校の校門として移築、現在も使用されているが、なぜ中学校の門に使用されたのか、詳細や経緯ははっきりとしていない。
最近の研究では靉光が影響を受けたという絵画との接点を、今までの説以外にも、「もしかすると観古館で何か見ていたのではないか、そこにあった作品からの影響もあるのではないか」という説もあるそうだ。
昔から美術にゆかりのある地として、今この場所に広島県立美術館があること、に胸が打たれた。