【あなたのカメラロールへ繋がっている】なんでもないものの変容 後期展示 松濤美術館
2023年に千葉市美術館で行われ、大変感銘を受けた展覧会が渋谷区の松濤美術館へ巡回。
千葉市美では前期(23年4月末)を見たので、松濤では後期展示を待って行ってきた。
(追記・前期を見たと思い込んでいたら、なんと千葉市美でも後期を見ていたようだ。と言うわけで両美術館共に後期展示を見たこととなった)
概要や感想は上記のエントリーと重複する部分も多いので割愛する。
今回は同じ展覧会(厳密に言うと展示品は全て同じではないが)を期間を空け、さらに違う美術館で見てことで得た感覚を記しておきたい。
この展覧会は「前衛」という言葉を抜きにして、近代日本を取り巻く写真史として飲み込むことの出来る素晴らしい展覧会だ。
写真の黎明期、
「写真とは何か特別な物なんじゃないか」と幻想を抱かれながらも、時の経過と共に本来の写真の持つシンプルな意味に結局、回帰していく、そんな様子を見た。
「写真を撮ったこと/撮られたことがない人」はもう、世の中にわずかしか居ないだろう。
お腹の中からエコーで画像として残る時代に。
写真が発明された頃から、写真の役割や位置付けが社会の移り変わりによって変化しながら現代まで脈々と続いていることを考えると気が遠くなる。
対象を撮る、対象として撮られる、ただそれだけのことをシンプルに繰り返すだけで記録になっていく。色んな後付けで意味を加えられながらも、記録という行為自体は意味を変えない。
その事象は現在、自分のポケットの中にあるスマホのカメラロールにも繋がっている。
何気ないスマホでの撮影もほんの100年前私の祖母の時代から「記録」という行為で繋がっているのだ。
そして「写真を撮る楽しみ」を少なからず皆知っている。でなけりゃInstagramがこれだけ浸透しないだろう。
あまりカメラを使用しなくても、それでも日常でカメラを構える又は向けられ、レンズに視線を投げることもあるだろう。
レンズを覗く、レンズを見つめる
シンプルに人類は100年以上それを続けているのだ。時にセンセーショナルな進化や目を背けたくなるようなことも、感動的な場面も写しながら。
そんなことを気がつかせてくれる展覧会だった。
千葉市美術館には千葉市美術館の、松濤美術館には松濤美術館の独自性がちゃんと見える。
明らかに展示面積は松濤美術館のほうが狭いわけだが、解説や展示の満足感は変わらず。
深さ、は健在だった。
素晴らしい企画展だった。
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