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新海誠「すずめの戸締まり」のダイジンというキャラが持つとてつもないエモさ

※本noteはネタバレをたぶんにふくみます。ご注意ください。

いやぁよかったですね『すずめの戸締まり』。
新海誠の魂の精髄を見た気がする。個人的には君の名は天気の子より断然面白かったですね…

僕的にとても良かった要素として
・すずめの令和時代の主人公らしい力強さ
・ダイジンのエモさ
があると思っているのですが、今回は後者のダイジンについて語っていこうと思います。

考察もちょっとはあるけれど、一度見ただけでは僕の頭では全てを理解できなかったので、どちらかというとエモさと感度を分かち合うような。一緒に観に行った友達と、フードコートでご飯を食べながら感想を軽く言い合うくらいの気軽さで書いていこうと思います。
ええ…僕は一人で観て寂しかったんです。はい

ダイジンとの出会いについて

一番最初の登場シーン、スズメが要石を抜いてしまう場面で、僕は心底ギョッとしました。

明らかにやばいものを封じていた重石を何も知らない一般人が抜いてしまう、というのは伝奇モノで物凄くよくある導入です。
しかし、封じられていた対象は「よくぞ抜いてくれたな人間よ。」と大笑いするような倒すべき邪悪な存在として描かれるか、そうでないなら「うしおととら」とか「夏目友人帳」のキャラように憎みきれない相棒として描かれることがほとんどだと思います。

ところがすずめが解き放ったのは猫でした。それも顔も見せず、言葉も発さないままに一目散に走り逃げる姿はよくいるか弱い野良猫そのもの。

生き物を楔にして封じていた以上、もう一度封をするにはなんらかの生き物を犠牲にしなければならないことは物語の都合上明白です。そうでなければ視聴者は許してくれません。

猫にもう一度…?さっきの男が…?それともまさか、すずめが?
……新海誠監督ってセカイ系好きだよなぁ…でも地震は…

ここでもう、新海誠監督がたった2時間の映画で何を描こうとしているのか、その覚悟が見えた気がしました。同時にこれは生半可な覚悟で見てはいけないものだな、と

ダイジンの役割について

ダイジンの役割は終盤までは一貫して、物語を動かす狂言回しだったと思います。

・不気味さの象徴として、草太を椅子にしてすずめを戸締りに協力させざるを得なくする旅の意味の役割
・邪悪な存在として、ミミズの原因(後に違うことが判明)かつ封じるべき敵となりすずめたちが追うべき旅の目的の役割

この二つがなければすずめが旅に出ることも、草太と親しくなることもなかったでしょう。

僕は最初、ダイジンを悪者として倒して終わりなのかなぁ?と漠然と考えていました。二回連続でセカイ系はやりすぎだし、地震は流石にまずいし…

しかしその後、二重の意味で裏切られることになりました。まぁ新海誠監督がそんなにヌルい物語を描くはずがなかったのです。
思い返せば伏線は色々とあったのですが…

ダイジンは土着神なのか、それとも元人間なのか

ダイジンの正体というか、生い立ちのようなものについてネットでは主として二つの説があるようです。

①日本という国を守るために存在する生まれついての神だという説
②草太と同じように、要石にされた元人間だという説

正直一度見ただけなので、確証を持ててはいないのですが、僕は②が正解だと思っています。

草太が要石にされている際、『草太は要石として神になっている最中だ』という意味の説明が入りました。このことから次の二つのことがわかります。

・要石とされた人間は、年月を経て神へと転じること
・要石が何代も代替わりしていること

ここで今作がアニミズム的土着信仰をモチーフにして作られていることと、災害を鎮めるための人柱として使われたのは、"ケガレ"のない子供や処女が多かったことを思い出すと、やはりダイジンの正体は②の元人間が正しいのではないかと思うのです。

繰り返しになりますが、根拠としては乏しいかもしれません。自信もありません。ひょっとしたら正解などないのかもしれません。

ーーただ、もうしそうだったと仮定すると、『すずめの戸締まり』はとてつもない深みとエモさと、そして血生臭いグロテスクさを兼ね備えたとてつもない作品に思えてくるのです。

ダイジンは愛されないまま要石にされた幼子

前節の②が正しいとした上で、さらに考察を広げていきます。

結論から言いますと
「ダイジンは愛されないまま要石にされた幼子で、スズメと出会って愛を知り、スズメのために世界を守った。」ということになります。

一つ一つ解説していきます。

まずは愛されないまま要石にされた幼子、という要素について。
これに関しては、単純にダイジンを担当した声優が子役だったということ以上の理由が存在していると思います。

二度目にダイジンが登場した時、ダイジンは痩せ細った猫の姿でした。それを可哀想に思ったすずめは餌を与え「うちの子になる?」と誘います。

その行為によりダイジンはある種生意気なほど、元気になります。暗く、寂しく、寒い要石としての役目から救ってくれたスズメから親としての愛情を受け取って、物質的にではなく、精神的な充足を得た結果としてダイジンは力を得たのです。

「親から愛されなかった子供」がどれほど苦しいのかは、昨今の毒親問題や児童虐待問題で広く知られるようになってきています。
アニメ作品で言うなら、『輪るピングドラム』をご覧の方なら、これがどれほど重いテーマなのかも分かると思います。

すずめに生まれて初めて愛されたダイジンは、それはもう痩せた体が一瞬で元に戻るほど嬉しかったのでしょう。

ダイジンが幼子だと思う理由は他にもあります。

ダイジンはスズメに日本各地で自分を追わせ、自分が解き放たれたことにより生じたミミズの現出を「戸締まり」の力で封印させていきます。

閉じ師の草太と直接話せば自分がもう一度要石にされるので会いたくなかった…という理由と、物語に目的を持たせる大人の事情的な側面があると思うのですが(笑)
そういう都合以上に、ダイジンはあの旅を楽しんでいるように見えなかったでしょうか?

わざわざ電車に乗って可愛いポーズをとって写真を撮らせたり、大橋の橋梁に乗ってテレビの注目を集めるような行動をしたのは、スズメに自分の位置を知らせる以上に、みんなから注目されたいという子供らしい素朴な承認欲求があるように見えました。

極め付けが神戸のルミさんのスナックの一件です。

ダイジンは人に化けて、スナックで周りのお客さんに溶け込んでいました。ぼんやりと、ただただ慈しむかのように…

ここを思い返して、私はようやく気付きました。
この旅は、すずめの成長の旅ではあり、同時にダイジンの成長の旅でもあったのではないかと

今作の旅には、彼が寒くて、暗くて、寂しい要石の役目に耐えることで守られてきた人の営みを、温もりを、優しさを、噛み締める意味合いもあったのではないかと

幼心のまま精神構造だけ神となったダイジンにしか出せない聖性が、そこに見てとれました。

一度温もりを知ったダイジンが、もう一度要石に戻ることを拒否するのも仕方のないことだと思います。

なぜダイジンは再び要石に戻ったのか


要石の役目が非常に辛く苦しいことは、草太の精神世界の描写を見るに明らかです。
作中では要石になると、その存在ごと凍り付いたまさしく石のように氷結していく描写がいくつもありました。

ダイジンはそんな役目を、草太の育ての祖父が彼を知っているのを見るに少なくとも数十年間押し付けられてきたのに、どうして草太に押し付けることもせず、もう一度受け入れたのでしょうか。

それはやはり、「すずめのため」であったと思うのです。 

ーー前述の通り、ダイジンは愛されないまま要石にされた幼子です。


彼はすずめに会って愛されることを知りました。
旅を通じて人の営みの暖かさを知りました。

草太を要石に据えて日本を守る、過去の例で言えばおそらく当たり前のことをしただけなのに、すずめには「大嫌い」とまで言われてしまいます。


それはこの旅を通してダイジンが得たすべての幸福を無に返すほどの絶望だったのです。
ダイジンはそのひと言で、元の愛されない痩せこけた子猫に戻ってしまいます。

それでもダイジンはすずめに付いていきました。
自分以外の男のために動くすずめのために尽くしました。
一番でなくてもいい、その結末が無限の孤独でも構わない。ただもう一度、たった一度でいいからすずめに「うちの子になる?」と言ってほしかったんです。
それだけでよかったのです。

ーーそして運命の扉を目前にして、すずめにもう一度肯定されることで、ダイジンは力を取り戻しました。
ダイジンにとっては全身が粟立ち、その場でくるくると回るほど嬉しくて、欲しかったものでした。

その瞬間、ダイジンは覚悟を決めたのだと思います。
「うちの子」にならなくたって構わない。恒久の幸せなんていらない。
ただすずめと、すずめが愛した世界が守られるならそれでいいと、心からそう思えたのではないでしょうか。

その瞬間、ダイジンにとって要石とは
「押し付けられた役目」から
「誇りを持って全うする責務」に代わったのです。

彼に思い残したことなど、もはや何もないのです。

ーーこれにて、ダイジンの物語は終わりになります。

どこまでも満たされたまま真の意味で神となったダイジンは、果たして本当に幸せだったと言えるのでしょうか?

難しい、本当に難しいと思います。そんな彼の生涯を言葉で表すことは…

事実だけ見ればダイジンが同じ役目に戻っただけとも取れますし、すずめが幼子を犠牲にして好きな男を救ったとも言えます。

とてつもないグロテスクさでしょう?ダイジンが人の形を取った容貌をしていたら、多くの人は耐えられなかったかもしれません。

だから、新海誠監督はこれまでの3作で試みてこなかったマスコット的なキャラクターを物語の主役に据えたのかなぁなんて妄想もしてみました。

しかし、グロテスクでありながらも、私はダイジンの生き様は大層美しい物だと思いました。
彼は本当に愛するものものを得て、本当に愛するもののために生きたのです。

「新海誠はセカイ系から逃げた。」そういう人がいました。果たしてそうなのでしょうか?
ダイジンの生きる道は自ら選んだ結末は、セカイ系作品と同質の極めて尊い物があるのだと、私はそう思います。

ここまで読んでくださり本当にありがとうございます。

ダイジンというキャラがいかに魅力的であるか、皆さんと少しでも分かち合えたのなら
それだけで幸いです。






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