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枕草子にみる日本人の情緒性

日本の古典文学、それには季節や自然に対する日本人の情緒表現が数多く見られる。そのような観点から私は殊に枕草子を好む。
特に古典に親しみ、学問の対象としたこともないが、日本人の自然から受け取る心情を書いた清少納言の文学が、日本の山野や自然を駆け巡った日々の私の行動やその思い出が私の基層を形作っているのだろうとつくづく感じる今日この頃である。
宮廷文学の代表作である「枕草子」を巡りながらいろんな日本人の各世代に共感できる話を紐解いてみたい。

Webから転載した画像

私は少年時代から山野を駆け巡るのが好きで兄弟共通の資質であった。
兄、弟たちも穂高連峰から、南アルプス、北海道、東北の山々を走破してきた。
私は、サラリーマン時代出張の合間やその後独立した自営業での隙間時間をやりくりしながら京都、奈良、近畿の庭園文化鑑賞のため通いつめた。
そのような事をやり遂げた感性は少年時代に出会った清少納言に触発されたものが少なからずあったのだろう。
随筆・枕草子の大きな魅力とは、1000年前の女流作家である清少納言によって美しく描き出された日本の四季です。
清少納言が枕草子を書いたのは、平安時代の真ん中、西暦のちょうど1000年前後になります。
正確な執筆時期は定かでないが内容から察するに、西暦995年頃に書き始め、1001年頃には完成していたのではないかといわれる。


冒頭の有名な書き出し『春はあけぼの』では、春夏秋冬を取り上げて、それぞれの季節の中で最も良い時間を光に注目しながら切り取っています。

「春はあけぼの」で始まる第一段で描かれるのは、太陽が昇る直前の京都東山の空の色の移り変わりや、夏の蛍の飛び交う情景である。

春はあけぼの。やうやうしろくなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる。

(春はなんといってもほのぼのと夜が明けるときがいい。だんだんとあたりが白んで、山のすぐ上の空がほんのりと明るくなって、淡い紫に染まった雲が細くたなびいている)

この冒頭の文章はとても有名で、文系の暗記科目が得意な私などがテスト範囲として丸暗記したものだ。
然しテストで高得点を取るという事だけではなく、”春はあけぼの”など、時間から美を切り取るという視点描写が私にとって斬新なものでした。

この様な点が、日本が世界に誇る随筆文学「枕草子」なのです。その有様は、動きのある描写ー虫の声や菖蒲の残り香、顔にしみる嵐などの記述ーに見てとれるように、視覚、聴覚・嗅覚・触覚などの感覚器官へ印象深く訴えるのも特徴的である。
このような言葉遊びや連想で書き進めていくウィットに富んだ発想表現も特筆に値する。
「近くて遠いもの」として大晦日と元日や仲の悪い親戚、「遠くて近いもの」として極楽や男女の仲などを挙げ、憎い相手が悪い目に遭うのが気味がいい、人の噂話をすることほど面白いものはない、法話の説教の講師は美男子が良いなどと、まるで現代の若い女性と変わらないユーモアをしたためている。
清少納言はそういった普通の人間の正直な気持ちを的確に捉えることに長けていたのです。

平安時代に日本で初めて女流作家が誕生し、女流文学が栄えた。平安以前の日本では、公の書き言葉とは漢文で、貴族の身分である男子とは違って、女子が漢文漢字を学ぶのははしたないこととされた。
しかし、平安時代に漢字から平仮名が考案され漢文でなくやまと言葉を用いた勅撰和歌集「古今和歌集」が編さんされた。
いわば日本文学のルネッサンスが起こった。
「女性が文学の担い手となった時代では、繊細かつ優美な女性特有の観察力に基づく情緒表現が中心であった。
現代の古語辞典で情緒語の説明は圧倒的に女流文学から引用されていると識者は言う。

清少納言は当時の大人気歌人である清原元輔を父に持ち、多くの蔵書に囲まれて育ったといわれます。そんな環境が本を読み漢字を学ぶ機会を与え、文章力を身に付けさせたのだ。
当時の高貴な女性は、一度結婚すれば社会との関わりが絶たれる時代、だが清少納言は少し違っていた。
女性が世事に疎いのを否として宮中に出仕し、中宮定子と出会った。そこで生まれたのが後宮文学枕草子だった。

一条天皇の寵愛を一身に受けた藤原定子(ふじわらのさだこ/ていし)は、中宮としての華やかな生活は長く続かず、一族の没落と共に若くしてこの世を去った悲劇の女性として知られています。

清少納言の仕えた中宮定子の生まれた中関白家の凋落は、藤原道長の台頭という時代の流れに翻弄されたとの印象が強いが、その出自家の没落の後、定子も亡くなりますが、その華やかな後宮文化が枕草子によって後世に伝えられたという事なのです。
中宮定子の出自、中関白家は、藤原道長の兄であり定子の父親である道隆の強引な娘の入内がたたり世間の批判を呼んだ。
そのことが栄光の日々とは裏腹な凋落という悲劇を呼んだ。
その華やかな栄光と凋落を目の辺りにした清少納言は、人生の無常、非情を繊細に感じ取り彼女の心情が育てられたのだろう。

平安時代とは、日本の歴史の中で400年間に渡り最も長く続いた。
宮廷内の政治的陰謀はあっても戦争のない安定した時代であった。天皇を中心とした貴族社会で、入り組んだ人間模様の中から恋愛感情や思いやり、自責や苦悩、弱さ、ずるさや恐れなど、複雑かつ繊細な感情表現が生まれたともいう。
虫の声を味わう清少納言の感覚は、日本人特有のもので、木でも虫でも言葉でも、全てのものに魂が宿るという自然信仰から生まれた共感であり、日本人の感情表現の基本だ。
1000年前の清少納言の心情が理解できるのは、その共感が現代の日本人の中に今も生きているからである。

月の最も美しいのが、旧暦の八月十五日、十五夜月で中秋の名月と呼ばれる。対して十三夜は「名残月」ともいい、「中秋の名月」に次いで、もうひとつの月見となっている。
十三夜月は、十五夜を懐かしみ、欠けていく今年最後の月を惜しむ事から始められたが、古くから行われた行事でなく、日本固有のものとして、独自の意識を生み出していった。十五夜の月見をやって、十三夜をやらなければ中途半端と謗り、半ば強要する風潮があり、それでは十三夜月に見合った地味な茶席を設け、月見をしましょうとなった。
そのお蔭か参加者は、欠けゆく「名残り月」から不足の美を、「名残り茶事」から不用の美を学んだ。不完全だから美しいと感じ、朽ち果てる「不用の美」に、「滅びの美」を見る。
それが日本の「骨董」の正体であり「侘びさび」として日本独自の美意識が確立されていった。
随筆文学の最高峰『枕草子』を書いた清少納言は、夜明けに残る細く欠けた月を名残り月に見立て
「まーなんて美しい」
と詠嘆している。
もしこの件を彼女に聞くことが出来れば
「何事も満ちれば、欠けるんです。完全は頂点で減少に転じるから美も同じこと。少し足りない所、不足が美しいのよ」
と砕けた答えが返ってきたかも知れない。
要は、自然に対し、完全、不完全とやたら主張するのでは無く、主張を抑え、隠すべきところは隠し、調和させれば、却って想像力を刺激し、奥深いものを感じるとる事が可能になるという彼女なりの気付きがあったのだろう。


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