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デカルト2(追記修正版)

デカルトの方法的懐疑とは、絶対的な真理を求めて全てを徹底的に疑うことです
疑わしいものを全て疑って、どんなに疑っても疑えないものが残るなら、それは真理と言えるのではないかと考えたのです。

そうして、少しでも疑いのあるものを排除していったところ、今現在そのように疑っている自分の思考だけは排除できなかった。
つまり、その思考をしている自分だけは確かに存在する、ということに気がついた。

だから、「自分はなぜここにあるのか」と考える事自体、自分が存在する証明である。それをデカルトは、「我思う、ゆえに我あり」と言ったのです。

どうしても排除できないものとして最後に残ったものが「我思う、ゆえに我あり」という認識。
真実なのか、排除すべきなのか、自分は考えている。考えている自分がいる。
この事実だけはどうしても排除できない、という主張である。

彼はこんな命題を薄暗い部屋に閉じこもり終日考えていたのでしょうか。
事実は違います。彼は行為的にも心的にも旅の人でした。

彼の旅の目的は心のプロセスを求める旅であったのでしょう。
各地の異なる風景を見て、目にしたもの経験したものを全て疑いぬいた末に私というものの主観的自覚を客観的世界へと切り離して見ることができたのでしょう。世界の存在根拠となる自覚です。

しかし、結局のところ、「絶対確実な真理の存在について考えている自分は確かに存在する」といっても、それを証明できる者は自分以外にいないことになります。

このように「我思う、ゆえに我あり」は現代の常識に照らして考察すると証明の論理的基礎が脆弱で、結論が客観的かどうかもわからないという批判を生みます。

そこに宗教と学問(理性)の両立を前提としたデカルトの限界があると言えます。

デカルトについて超簡単に書いてみましたが、デカルト自身は、熱心なキリスト教の信者であり神の存在が全てであったようです。

数学者でもある彼が数学的秩序に満ちた世界を知るにつけ、その絶妙な秩序が神のなせる業と感じたのは自然であろう。

しかしながら「感覚」や「現実」は疑えるけれども、その大もとの「思う我」が「在る」ということは疑えないということでしたが、確かに、「思考する我」の存在を疑いようのないものと考えるのは、理にかなっているように思えます。なぜならば、「我」がなければ、疑うことさえできないのです。

これらのことを思いつつデカルトは当時の宗教観や自身の神の概念とが次第に離反してし舞うことに戸惑いを覚えていたのかもしれません。我思うゆえに我ありの「我」つまり「人間」こそが世界の主人公だ、ということです。つまり、この世界は神でなく「人間」がつくりあげているものだということを暗に言いたかっのではないかとの思いを強くしたのです。

また有無の二元対立の克服をテーゼとする禅との対比も面白いと感じました。「考える」という動詞には主語が必要ですが日本では東洋では、しばし、主語が欠落します。

ではその無い主体には何が当てはまるのでしょうか。です。思考する主体が無というのです。我があって認識があるわけですから無である主体を我と呼ぶしかない故に客体化できない主体を我と呼び、そこを出発点とするしかない、というのがデカルトの思いだったのかもしれません。



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