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大乗起信論と西洋哲学

大乗起信論は大乗仏教のドグマについて書かれたものである。
私は仏教学者でもなく、哲学徒でもない。単なる歴史愛好家であるから深みのある論理展開もできないが、その点がかえって、素人めいた理解の中にその核心に触れるというか、しっぽを触るかのように真理に至るものがあると信じこのNoteに関連テーマを書き綴ってきた。

釈迦の没後、数百年を経て紀元前後に生まれたのが「大乗仏教」です。それまでの古代仏教では、完全な悟りを開けるのは「出家者」だけとされていましたが、大乗仏教は出家・在家に関わらず、全ての人が解脱(げだつ。現世の苦しみを脱して悟りに至ること)して救われるという新たな信仰として誕生したのです。誰でも乗れる「大きな乗り物」という意味です。

『大乗起信論』は「大乗」に対する信を我々に起こす目的で著された仏典です。 ここでの「大乗」をさらに具体的に述べれば、我々の心に宿る「さとり」(覚)を意味するものです。
私たちの心は常に「さとり」を覆い隠す「まよい」(不覚)に支配されているといいます。
人間の通常の実践生活を支える「心生滅」は身体感覚、認識、 判断等々を駆使して現象世界を構築するが、それら「四相」・・(因果関係のうちに成立する現象で現在の一瞬間のうちに呈するの4つの相状)を具えた仮のものとして、その固有の存在は否定さ れる。

すべてのものが変化し生滅することによって、いわゆる西洋哲学的な「実体」(substance)は認められな いのである。
すなわち、大乗仏教はいわゆる唯心論の立場をとり、不生不滅の「一心」が唯一存在すると主張し、その本来的 な真実のあり方「心真如」と現実の生活実践面でたえず生成変化に見舞われる心「心生滅」との「二門」に分けて論じる。

ただし「一心」は現勢的に活動する心意のことであり、それには宇宙的な根底がある。現実に働くあ らゆる心意の根源を仏教は「アーラヤ識(阿頼耶識)」あるいは「蔵識」と呼ぶ。あらゆるものが現実に出現する根源、 あらゆるものが納められている倉庫のように考えられている。

現代の西洋哲学史ではフッサールの現象学が否認する「意識そのもの」は仏教では肯定されるのである。仏教が主題とするのは、誕生後の妄想と現象に汚染された世界に苦しむ心(心生滅)と、苦から脱して得られる 清らかな心の境地(心真如)との対比と解消である。

通常、起信論のこの構造は簡単に「一心二門三大」といわれ る。つまり、一心は「心真如と心生滅」との二重構造からなる、つまり「和合」していると仏教は考え、最終的に 人間は真実の心(心真如)に還帰するといわれる。

その心が如何に偉大な働きをするか(心作用の偉大な三つの働 きと状態を「三大」という)を考察して、宗教的次元におよぶのである。心真如は「清浄心」ともい われる。人生に救いをもたらす心意である。

起信論はそのことを次のように語っている。 「真如」〈真実ありのまま〉ということには二つの意味がある。第一には〈ありのままに空〉「如実空」ということ。 すべての現象は妄念の所産であって、妄念と現象が一切無いからである。第二には「如実不空」ということ。こ れは宗教的意味のものであり、そこには現象が無い代わりに〔如来の〕徳相が本来具わっている(不空)からで ある。

心真如は「如来」「ほとけ・仏」の心意でもある。真如・実在には何らの意識現象が無いことから「空」といわ れる哲学的意味が重視される。

宗教書としての『大乗起信論』はこの真理をすべての人に陳べ伝えて「利益」 を得させるためのものである。

汎神論は基本的に自然のすべてのものに神的実在が内在してい ることを言う。それを仏教と関連させて見れば、実在として真如が差別 的な存在者[万有]に内在するために、現象的差別を越えて、本質とし て真如は真に無差別的であり絶対平等であるとする。

『起信論』では真知縁起論を主張する。私たちの現象世界を観察すると、一方では生滅変異する相対的な差 別があるのと同時に、もう一方では不生不滅と不変不異の絶対的な 平等がある。
『起信論』では前者を生滅門であるといい、後者を真 如門であるという。この真如というものが宇宙万象の本体であるた め、この世界の生物や無生物を問わず、この世界のすべてのもの は、みなこの真如から発現し生生するというのが、真如縁起論の主 張である。 

19世紀のドイツの哲学者ショーペンハウアーは、「世界とは私の表象である」といいます、
彼によれば、現象世界のすべては心の根源をなす「意志」から生じる表象だと言い、とても唯識に近い考えなのです。
私たちは、認識したものを分類して概念化・言語化する知の働き、分別智を備えています。私たちがちが普通「知性」と呼んでいるものです。ですから人間は言葉を操り、科学を発達させ、文明を築いてきたと言えます。西洋の哲学は、この分別知から成立します。
一方、仏教では、この分別智の対極にある知の働きとして「無分別智(むふんべつち)」を説いています。これは認識したものを分類することも概念化することもない知の働きです。直感ともいえるのでしょう。
仏教では、この無分別智が私たちを解脱に導くと言い、逆に分別智は苦しみを生む原因であると言います。

西洋哲学が言葉や概念を疑っていないのに対し、仏教は言葉や概念を用いてはいても、その限界や負の側面を分かった上で使っている。そこが両者の根本的な違いがあるのでしょう。

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