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北条政子 3

3代将軍・源実朝は『金塊和歌集』を編んだ歌人として名高い。
文学的イメージが強いのでダメ将軍としての評価が成りがちだが、実務のうえで「将軍親裁」を実行しようとした。
合議制ではなく、父頼朝が目指した一切の権限を将軍家に集め親政を行うこと、いわゆる強い将軍への復活である。

実朝は後継者に恵まれなかったため後鳥羽院との関係を利用して「親王将軍」を構想するが、右大臣就任拝賀の日に悲劇は訪れた。

源実朝は兄源頼家と違い非常に文化的・平和主義的の強い人でしたから、母、北条政子と諍いを起こすこともあまりなく、さらに妻は京都の貴族の出身であるだけに朝廷との関係も良好でした。実はこれが実朝暗殺の伏線となっていました。

 実朝に対しては「北条氏の傀儡だろう」などといわれたりしますが、将軍家政所を開けるようになった18歳以降を見ていくと、「将軍親裁」といわれるように直接政治的な権力を握って、政策を実行に移していきます。

実朝は強い将軍のイメージを父頼朝に感じていたのでしょう。

実朝は、当時朝廷の最高権力者である後鳥羽院から「実朝」という元服後の名前をもらっている。

また、御台所(正妻)としても後鳥羽院のいとこをもらい、何らの活躍もしていないのに武家として父頼朝以上の高い冠位右大臣を授与されたのも実朝を傀儡にしようとする朝廷の試みであった。

しかし、執権北条義時は朝廷や公家の所領や荘園へ武家政権の中枢支配層である守護地頭の影響を高めるため全国にそれらの監督を徹底し始めた。

国の治安維持(警察の役割)を担ったり、戦時中に国内の御家人を指揮するのが守護の仕事です。

地頭は、守護よりもさらに現地に密着した役職で荘園や朝廷の管理する公領に送り込まれて、現地の土地や民衆の管理徹底を始めます。これは、京都に住む朝廷や公家の生活を圧迫し始めたのです。

鎌倉幕府へ極度の警戒感を高めていった京都。これらを併せ考えると鳥羽院との関係、すなわち朝廷との関係をよくしようとする実朝にある種の危惧を北条氏周辺は感じていたのでしょう。

最終的に実朝は後継者に恵まれません。つまり子どもが生まれず、「ではどうしようか」というときに、個人的なつながりの深い朝廷の最高権力者・後鳥羽院の皇子(親王)を鎌倉に下してもらい、自分は将軍職を辞して親王を補佐する形を取る、すなわち「親王将軍」を立てようという構想を首脳部に漏らしていました。これはいわゆる「公武合体」ともいえます。

 将軍家政所で合議が行われた結果、政子と義時の弟である北条時房(政所別当の一人)が使者となり、京都まで出かけて「親王をください」と申し出ます。政所の筆頭別当、つまり執権である義時がこの使者派遣に関わっていました。ということは、実朝の考えを北条氏も支持し幕府は一体となって後鳥羽院の親王を迎え入れようとしていた。「まー親王将軍でもいいか」と思ったのでしょう。

鎌倉時代は、“弱肉強食”の時代で、親兄弟も信じられない時代です。 ですから北条政子の性向と北条氏を守るという基本スタンスを考えれば、源氏直系の将軍でなくとも親王将軍として実朝亡き後の後継が決まれば良しとする弟の執権義時の実朝排除に暗黙の了解を与えた可能性はあります。

実朝右大臣就任報告拝賀の鶴岡八幡宮の社頭で兄頼家の遺児公暁が「親の仇をかく討つぞ」と叫びながら実朝の首をおとします。

当日太刀持ちとして参加する予定の義時は難を逃れています。
この突然の太刀持ち変更が実朝暗殺の主犯が誰かを匂わせます。誰かにそそのかされ、実朝亡き後の将軍就任を約束されたのでしょう、公暁も即殺され日本史最大の謎、実朝暗殺の黒幕解明は闇に葬り去られます。

家康が望んだ徳川長期政権への願望は、北条氏主体の将軍制度が長く続くことを願った政子の思惑が随所で交わる。
黒子に徹っし、子供二人を犠牲にし、弟義時の執政に大きく関与しただろう結果は承久の乱勃発の際での演説に見てとれます。

実朝暗殺を鎌倉動揺のチャンスとばかり、朝廷の実質的な頂点に君臨していた後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)が動きます。全国各地の武士に対して、幕府の実質的トップである執権・北条義時追討の院宣を発したのでした。

鎌倉幕府最大の危機に際して政子は居並ぶ御家人を前に「今こそ鎌倉将軍家への報恩を果たすべき」と檄を発し武士団を結束させ、承久の乱に勝利をします。
無理な推里もありますが東京から良くかよった鎌倉の歴史風土に馴染んでいた私が北条政子の功罪を語ればこんなところになるのでしょうか。

時代は移り政子と義時が作り上げた鎌倉執権制度にもほころびが見え始めました。元寇襲来も幕府を疲弊させました。
しかし、何よりも制度の持つ矛盾そのものが鎌倉幕府の崩壊を誘ったのだろう。

北条執権制度によって鎌倉幕府の権力者になれる者は、執権には北条氏の得宗家、そしてその周囲には北条の他の一門。又は譜代の御家人達のみで構成され、普通の武士や中小の御家人達は、全く鎌倉幕府の政治には関与すら出来ませんでした。

加えて権力の一極集中によって身内を優遇するあまり、鎌倉の外で起こっている事の把握が出来なくなっていきました。それにより鎌倉幕府というより、北条一族への怒りが、徐々に蓄積されていく事になっていきました。

やがて、かつては自分達の土地を守って認めてくれる存在だった鎌倉幕府から、もっと他の誰かに代わってくれた方が良いのではないかと、一所懸命に生きる武士達は思うようになっていくのでした。

人の世の栄枯盛衰、鎌倉の地に立てば征夷大将軍になった頼朝の誇らしげな声が風に乗って聞こえてくるだろう。
そして御家人に檄を飛ばす高揚する政子の声が。

やがて腹切りやぐらを囲む敵の中で最後の執権、北条高時一門の阿鼻叫喚の叫び声が聞こえるかもしれない。これが歴史なのだ。

おわり


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