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ただ足るを知る 知足と日本文化
禅は鎌倉時代に、中国から日本に入ってきた仏教思想の一つであり宗派でもある。
鎌倉時代は元寇もあり雅な平安文化の日本化が進んだ時代でもある。
そのような社会の空気は、貴族社会の抑圧から抜け出した武士団の精神性ともうまく合致し日本独自の文化を生み出していった。
禅の概念を象徴するものに代表的なものが竜安寺などの石庭や知足の蹲です。先ずは、知足の蹲ですが、「吾唯知足」の四文字がデザインされています。
「吾唯知足――われただ足ることを知る」と読みます。 「知足のものは貧しといえども富めり、不知足のものは富めりといえども貧し」という禅の教えを図案化し、表現したものとされています。
その意味するところは、次に述べる石庭の石が一度に全部見られなくても、不満に思わず満足する心を持て、という戒めであると言われています。
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石庭の「枯山水」。この枯山水は引き算の美学です。
水のない、水を引き算することにより水の風景を表現する技法や思想の表れが枯山水なのです。そしてこの庭には15個の石が使われ、一目ですべてを見られる位置はない、といわれています。
確かに、廊下を歩きながら見ると、必ず三群の大きな石が小さな石を隠すので見えなくなります。これが不足の美であり、余白ともいわれます。金閣寺のような豪華絢爛、贅を尽くす建築と庭から味わう豪華さではなく、銀閣寺のような質素であるが故に贅沢であるという感覚です。
「何もないからこそ、最高の美を感じる」という逆転の発想こそが日本美の基底にある。
その基底の一つに茶道文化がある。千利休の提唱した詫び寂びである。
侘(わび)は、「つつましく簡素なものの優美」を意味し、寂(さび)は、「時間の経過とそれに伴う劣化」を意味する。
古いわび茶の作法を巡れば(15世紀末から16世紀に茶人の村田珠光と千利休が完成させた茶の湯の道)その理解が進むだろう。
当時人気だったのはその表現の美といい技術的に非の打ち所がない中国渡来の陶器であった。彼らはそんな中国からの輸入陶器ではなく、ありふれた日本の陶器を選ぶことで、それまでの美の基準を超えようとした。
それまでは美しいものと言えば、鮮やかな色彩や凝った装飾である。
そのようなものがない即ち不足を前にして茶席の客人は、器の美を支えるものは、完璧さでなく不足あることをじっくり味わうよう、促されたのだ。
そして「侘び・寂び」は俳人の松尾芭蕉へ受け継がれていく
その後、「侘び・寂び」の精神性は後の江戸時代に活躍した俳人、松尾芭蕉にも受け継がれてきます。
「古池や蛙飛び込む池の音」、静寂さが漂う古い池。
1匹の蛙が池に飛び込んだ。その刹那静寂を破る水面の破音。
「チャポーン」と弾む音と鏡面のような池にスパッーっと広がっていく波紋。その切れの間に永遠の時間と空間の幕開けがある。
このような情感こそ詫び寂びなのだ。