
弁証法と仏教
前回の「弁証法の矛盾克服の次回版」に文章表現に難点があったので補正としてこれをかきました。
歴史の進歩とは何か。それを不条理の克服としたら「不条理」とは何かとなる。
本来は良識や理性の法則に反することで、非論理的なことであり矛盾的と同義であろう。
であるなら、理性に反しなく論理的であり矛盾がないことが歴史の進歩となる。
しかし、原子力発電も東北大津波の電源喪失による大厄災をもたらし科学の進歩と言われるものが必ずしも、進歩とならないことを私たちは突き付けられた。
個人の幸福感も歴史的、社会的な所属階層がもたらす相対的差別が強く影響する。
何も求めたわけではないのにこの世に誕生し、望まないのに死んでいかねばならないこの不条理。
辛いことの多い人の社会、時には嫌悪しても、執着し利己的に生きていこうとしている自己。
少し考えを変えれば楽に生きられるのにいつまでもこの有限なる世界に無限を求めている。
この様なものは人間存在の絶対性と相対性の矛盾に潜むものであろう。
換言すれば、本来自然の現象には 内的矛盾が存在しており、 そのすべ てに否定的ものと肯定的なの、過 去と未来、衰えと発展 してゆ くもの 、即ち矛盾的な存在が人間なのだ。このような問題の解が哲学なのだろうが西洋合理主義はこの問題に解を与えているのだろうか。
弁証法では、単体で存在するものはない、ということです。
ヘーゲルは、一人の主張-それへの反論-二人の納得という、いわゆる正・反・合の議論により『真理』を追究できるとし、この方法を定式化し、『弁証法』として確立させた。
正と反の相互対立と矛盾を解消して、正と反の両方の本質を含んだするような考えが生まれます。これが合であり、ジンテーゼです。
合は、正と反が「両立」できるように「統合」することが可能な1段進んだ本質的な考えです。
確かに合は、正と反の対立と矛盾を解消している点と、正と反の両方の本質を含んでいる点で、「両立」と「統合」を達成しています。そして、「両立」と「統合」が達成された考えであるために、「1段進んだ」考えで、正と反よりも「本質的な」考えと言うことが出来るのでしょうが、この変化がいつまで続くのでしょうか。
いつまでも際限なく永遠に続くのでしょう。
事物それ自体に、あらかじめ対立や矛盾を持つ要素が存在しており、その対立と矛盾によって発展すると考えるのが弁証法と言えます。
対して東洋思想、特に仏教は厳密には哲学ではなく基本宗教です。ですから実践や行動を、直観での理解を重視するので細部がはっきりしないきらいがありますが、
ものごとは、関係性において存在し相互矛盾や相互否定も含み、相互に依存しあっているとする。このような分析は何やら弁証法に似ていなくはありませんが、呼び方が違います。仏教ではこれを空と呼んでいます。
関係性によって現象が現れるからそれ自身で存在するという実体=自性はないという意味です。
ですから、これを以て縁起により全ての存在は無自性であり、空であると論証しているのです。空=無自性=縁起となります。(それ自身で孤立的に存在する本体もしくは独立している実体を「自性」といい、それの否定形が「無自性」
仏教の歴史的思想家竜樹は「ものが存在し、かつ無であるということは同時に成立しない」といいます。
しかし無ということがなければ有ということもない。つねに、有と無の両方があるということです。
そして有なくして無もない」といい、さらに彼は、この事について次のように言っています。
「有」と「無」のいずれかに執着する立場を偏見として否定する。このような立場が可能になるのは、「有」と「無」は相互依存していて、それらには自立的な存在根拠はない、という縁起思想だからであると。
あらゆるものを、相互依存の関係で理解するから東洋では、仏教の縁起と中道は同じ意味になるのです。
弁証法では否定の否定は肯定といわれ有に重きを置きます。仏教の論理においては、肯定(有)よりも、否定(空、無)の方が 中心的になっています。
例えば無即有・有即無とは、絶対と相対との関係を表していると推察される。
先ず、宗教とは相対によって自覚される絶対との関係の上に成立するが、 ここにおいて絶対は啓示のような仕方で相対にはたらきかけ、「絶対自身が相対に自らを あらわにするのだ。
したがって無即有・有即無とは、宗教において絶対が 相対に自らをあらわにするその関係の仕方についての、無(絶対)の側・有(相対)の側 における描写と考えられる。そこの矛盾の解消があります。
形づくられたものという意味で、それらは実体として存在せずに時々刻々と変化しているものであり、不変で実体はなく、すなわち「空」である。
「空」は「無」や「虚無」ではなく、存在する宇宙のすべての物質や現象の根源の目には見えないエネルギーであり、宇宙に存在するすべてのものはこのエネルギーが刻々形を変えているです。
すなわちエネルギーが「空」であり、「空」から生み出される形象が「色」と解釈される。
この世に存在(有)するものは実体としては存在せず(無)、時々刻々変化してやまないもの、瞬間瞬間何かに成りつつあるものとすれ有とか無の対立を越えそれを一体として捉えた存在論がなりたつのだろう。それを空とも中道ともいうのです。
次は少し視点を変えます。
1 弁証法を次のものと定義します。ヘーゲルの弁証法はあるもの(テーゼ=正)と、それと矛盾する、反対のもの(アンチテーゼ=反対命題)、そして、それらを矛盾なく統合したものジンテーゼ=合といいました。
2 仏教の構成要素は、実践的には「智慧」と「慈悲」、哲学的には「空」と「唯心」から構成されます。
一切の現象が空(平等)であると知ることは新たな智慧を得たことです。この智慧には慈悲が必要です。なぜならば、愛や慈しみは本当の智慧に根差したものでなければならないからです。端的に言えば差別心のない全てに平等の愛ということです。
「色即是空空即是色」をみて、「弁証法」に似ているとお思ったが私的に、これは「弁証法」と少し違うのではないかと思うようになってきた。
空の理解には二通りあるという。「色を分解してゆけば、結局空になる」という俗説は「析空観しゃっくうかん」と言って、あまり便利でない考え方といわれる。
析空観とは人間,心,また一般的な存在を種々の構成要素に分析したうえで,人間もそれ以外の諸存在も,実体をもたず,空 (くう) であると想念することです。分析的というか観念的な空の理解といえよう。
対し「体空観」は、先ほどの析空観(しゃっくうかん)に対するもので言語を絶して空を体験的、直感的に理解するものといわれる。
諸法を分析するのではなく,そのまま幻のごとくであり,空であると観じる方法で大乗仏教の空観とされる。
そして「中道」である。中道とは「内にも外にもとらわれず、有にも無にもとらわれず、正邪にもとらわれず、迷いを離れ、覚りにこだわらず、中流に身をまかせ、道を修めるものの考えが、中道であり、その生活の指針に沿うものが中道への道である。
仏教は、哲学のように「正反合」を求めるものではありません。
現代物理学は宇宙の数千億の星々と私たち命は同じ素粒子と論じます。
人間はわずかな期間にも代謝が行われて昨日の細胞は今日の細胞ではありませんこれが命です。
こう考えれば瞬間瞬間の於いて同じ命は無く、人は絶対唯一の個性であるといえます。弁証法には絶対という解はありません。
中道の「中」は、2つのものの中間ではなく、2つのものから離れて矛盾対立を超えることを意味し、道は実践・方法を指すものでこの意味において弁証法とは異なるものであろう。
合理という分別:合理的とは自我意識優先の考え方で分別の別名です。分別は有限の別名です。有限は論理的限界を表しています。
今世界がその限界に来ている事がその思想として現れています。物事を論理的にだけ割り切ってゆく事には限界が在ります。世界の矛盾、心の矛盾は自我意識だけでは解消できないという事です。