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神、仏と自然 その3
後近代の宗教と哲学
近代はまだ「過ぎ去った過去」ではない。日本という枠組みを超え、世界史的視野で見るなら、ポストモダン的言論や宗教論争が続く一方、今なお、プリモダンとモダンの間で苦闘し、近代的価値との葛藤のただ中にいるというのが現代における問題なのだろう。
その1、その2の主要命題である宗教。
その3に入る前に定義を明快にしたい。
「人格性は人間性の基礎の上に立つが、同時にこの基礎そのものの超越克服によ ってのみ成立する。これが宗教であり、宗教的進展の意義である。他者に於て、他者よりし て、他者の力によって生きる、これが宗教である」と定義する。前章から述べてきたように私の宗教観や哲学は、より具体的に述べれば絶対者としての神・仏・永遠なるものあるいは大自然に対する信仰や信念である。
近代の後来る後近代の宗教と言えどもこの信念を大きく逸脱するものでないだろう。
ここでいう大自然という言葉は、何度も述べてきたように神性・仏性等の深い意味を持つものとして宗教的であり哲学的な意味をもつものと理解したい。
従来の信仰が不思議、不可説な神秘的な秘儀を強調しすぎ若い世代の宗教離れを起こしているのは再考すべきだろう。
禅学でいう不立文字もそうであるがその内に究極的根源が存するとしても、できる限り簡単明晰なものにならなければ近代の後にくるポストモダンの思想として受け入れなくなるだろう。
ポストモダンといわれるこれからの時代は、環境破壊や宗教戦争、唯物論的政治信条等々技術社会の矛盾はとどめを知らないであろう。そのため、思想的に偏狭でない宗教や哲学が今よりもっと必要とされる時代になるのではないか。
道元に学ぶ
我が国の偉大な思想家であり宗教家に道元がいる。
道元の思想の書、正法眼蔵に心身学道という言葉がある。その意味は、究極に目指し求める仏性、神性、道のことであるが、文字どり心身を以て真理を追究することについて説いたものである。
彼の希求した道は、私たちの来る後近代の時代をも導くものと確信する。
今世界を見れば、戦争や経済的争いに満ち平安も幸福も欲っするままに得られない。
だから人間には苦悩から救われたいという願いがありその救いを哲学や宗教に求める。
しかし人間は微力であり生命力も知力も限界がある。そこで大いなるものへ目が開かれる動機があり救い救われたいという宗教心や真の英知が生まれてくる。
道元の言う身学道とはこれら全般のことを言うのだろう。
「この全世界が私一人の体に収まる。否、全世界が私の身体そのものである。そのような身が真実の人の体である」
即ち全世界が真実私そのものに体現されているからそこに生命の本質が宿り私の行動そのものが仏の道であるとする。行学一体、衆生といわれる私たちに悟りの自覚を説き、この身で学道することにより悟りを体得せよというのだろう。
この悟りという自覚が、心身一如であり尽十方界光明(尽十方界における事実の絶対性)なのだ。
近未来の宗教や宗教哲学がどのようになっていくのか確信が持てないがここでカントの言葉を述べておこう。
「教会的信仰から、暫次に純粋なる宗教的信仰・普遍的理性なる信仰のみの支配へ進展することが神の国に近づくことである」