宇宙生命と超越論的生命
「哲学の動機は「驚き」ではなくして深い人生の悲哀でなければならない。」
地球からの距離が200億 光年以内の宇宙は、物理 学上では可視的宇宙であり、これより遠い、いわゆる 「宇宙線」のその向こうは、人類の感知 できない世界であるというがそれは私たちの感覚上理解できることだ。
「そこから先は科学の範囲を越えて、純粋に哲学、つまり人間の思惟と想 像の問題になるのだろう。そこに超越論の本質・宗教哲学の世界がある。
私は禅学やその実践を多少かじった者として「真正の自己」に目覚めるとかいわゆる「悟り」とは何かとへの拘りがあった。
しかし、本来怠惰の自分であるから、座禅の実践をやり抜く努力も足りず高みに立つことはできなかった。このようなことであるから覚者といわれる人たちの所謂「悟・覚}の自覚は多分に彼らの自己妄想的なことに違いないとも思ってきた。
ですから、ここしばらく超越論的な哲学に触れてきたのは、「悟り・覚り」といわれる自覚とは何かを身体行動的ではなく思索としてとらえようと考えてきたからである。
おそらくこれ等の思索は超越論的哲学の範疇に属することになるのだろう。
更にもう一つの切っ掛けは、」2024年11月18日に亡くなった愛犬の死に至る体調不良があった。
人の死であろうとペットの死であろうと死ほど非情理なものはない。否ペットは生きることのすべてを飼い主に依存しているだけにその死は飼い主にペットロスとして重く圧し掛かる。
そのように生死の問題はどのように考えても合理的に納得することが難しい。
生きることは実在の確認であり死に対しての肯定です。他方死とは非存在であり全ての存在の否定と捉えれば誠に非合理的事実である。
この非情理ともいえる死を克服するために宗教の存在もあるのだろう。
一部の京都学派は、伝統の仏教(禅宗と真宗)の教義に理性的 な思惟を導入し、それらをして神秘主義に陥らせないように、また脱神話化するように理性哲学を説いている。
即ち他力の恩寵(宗教の媒介)を通じて、自己否定から自己肯定に転じるその自己限定(哲学の否定媒介) の過程において、絶対(神)が自らを「生きとし生きるもの」の上に現ずるという根拠だ。
ここに、宗教と哲学、信仰と理性は 相互否定媒介の関係に至り、信仰と理性は宗教を仲立ちとして相互関係を成立させる。
「神(絶対)と相対、イエス・キリストと民衆、仏(無)と衆生(動物)」の相互否定媒介関係はまさに、仏教の「因縁、縁起哲学」あるいは「空の哲学」(存在論)からも指摘されることだ。
動物焼却炉が点火された暫く後、孫娘が愛犬の名「ゆず」と呼びながら「あっ、ゆずがトンボになって帰ってきた。」と虚空を指さした。私も瞬間トンボを見た気がしたがすぐにその映像は消えた。この時期11月中旬過ぎトンボがいるはずがないだろう、いないものが見える、形ちある有から無に絶対否定された「ゆず」が永遠の命を得て天国(虚空)に上ったと幻覚ではなく実感した。
これが宗教的な媒介であり超越なのだ。
理性的合理が不合理に媒介する生命活動の働きの直視、直感が生命の永遠性を悟るということなのだ。
冒頭の動画の一部は、むくんで顔の印象が変わってしまった「ゆず」が、東京や川崎市に住む娘や孫娘の帰省を玄関で迎えた時のもの。一時的にむくみもとれいつもの奇麗な顔を取り戻し、しっかりとした足取りで出迎えてくれました。
最後の元気を家人に見せ「心配しないで」と言いたかったのです。
翌日静かに旅立ちました。
「ゆず」は、東北大地震の翌日仙台市で生まれたそうです。母親の胎内で津波の地響きを聞いたのでしょう、雷とか花火の音を極端に恐れました。
何かの縁だったのしょう、ペットショップの売り場からダンボールの小箱に入れられ我が家の座敷に放された時、座敷中を飛び跳ねていたその可愛いしぐさを家族の者は誰一人として忘れることはないでしょう。
合掌