チェンジメーカーを育てる”SEL”と出会うまで ー『世界標準のSEL教育のすすめ 「切りひらく力」を育む親子習慣 学力だけで幸せになれるのか?』よりー(前編)
学校になじめなかった幼少期
私は自分のやりたいことが明確で、すぐに行動に移すタイプでした。「あれもやりたい」「これもやりたい」という「WHAT」に関する主張はもちろん、「こんなふうにやりたいんだ」という「HOW」についても自分で決めたい。周囲の大人は手を焼いていたのではないかと思います。
幼稚園のときに、当時開催中だった長野オリンピックにちなんで「国旗を描こう」と先生が言いました。私は「自分でかっこいい国旗を作ろう」と決めて、実際には存在しないおしゃれな国旗を描きました。そして、自分が描いた国旗を「どうだ!」とばかりに見せた瞬間に、みんなの反応が想像していたものとまったく違うことに気づきました。
ほかの子どもたちは実在する国旗を手本にして描き、それを先生は「上手に描けたね」と褒めていたのです。
30年経った今も覚えているほどショックを受け、羞恥心を覚える体験でした。おそらく、私は自分で創り出すことへの欲求が強かったのに、それを踏みにじられたように感じたのだと思います。その結果、今でも絵を描くことに抵抗感を抱いてしまいます。
小学校に入っても、「何かを創り出したい」という思いは止められませんでした。勉強は嫌いではなかったので、自作のテストを作成して、友達に出題。しかし、私の行動をおもしろく思わない先生もいました。私は問題を作れるようになるまで考えて勉強するような子だったので、ある授業で、「その教え方では、みんなこんなふうに勘違いしてしまいます」と指摘してしまったのです。今考えると、本当に生意気な子どもでした。
その結果、先生からは「あなたは面倒くさい」と言われ、さらには「悪霊」という呼び名までつけられました(「悪霊」はあんまりですよね)。大人にそうした扱いを受けたことで、「自分を出してはいけないんだ」と強く思うようになっていきました。
その後、中学受験をして進学校に進みました。周辺エリアからトップの学力の生徒が集まっており、成績は140人中40番ぐらい。それに対しては、優秀な子たちが集まってくるので当然だなと思っていました。成績よりも、自分の感じていることを発言して浮いてしまうことのほうが私を苦しめました。
歴史の授業で、第2次世界大戦を扱っていたとき、年号や人物名を覚えることばかりに 終始しているように感じ、「もっと大切なことがあるのでは」と違和感を覚えました。 そして、「終戦が今の私たちの暮らしにどのような影響を与えているのか」という問いが沸ふつ々ふつと湧き上がり、挙手をしてクラス全体にこの問いを投げかけました。
すると、「テストに関係のない、面倒な発言をするやつだ」と言わんばかりの生徒と教員の視線が自分に向けられたのです。グサグサと矢が刺さるようなあの感覚は、今でも忘れません。
オリジナルの国旗を描いて友達から浮いてしまったこと、先生に指摘をして煙たがられたこと、そして、中学時代のこの体験から「やっぱり周りに合わせて生きよう」と私は強く誓い、内にこもっていきました。友達から浮いてしまう自分。浮かないように頑張ってみるけれど違和感で苦しくなる自分。こうした事実に目を向けると、孤独を感じ、苦しくなりました。
「もうここでは自分の知的好奇心を満たし、学び続けることは難しい」。そう感じた私は「自分の強みを大切にできる環境に移ってみよう」と思い立ち、カナダへの短期留学を決めました。
そこでの授業はディスカッション形式で、「男性が育児にどう参画すべきか」「原子爆弾が広島・長崎に投下されたことから何を学べるか」など、答えがひとつではない問いについて意見を述べ合い、学び合いました。
結果、その短期留学で「これが私の学びたいスタイルだ!」と気づきました。そして、中高一貫の私立校で、中学から入学した生徒は当たり前のように高校に進学する環境を飛び出す決意をし、「私は海外の高校に行きたい」と両親に直談判したのです。
自己認知・自己決定が推奨されるスイスの高校
海外の高校を調べる中で、最終的にスイス公文学園高等部への進学を決めました。 4か国語を公用語とするスイスに興味を持ち、授業は英語ですが寮生活をともにするほとんどが日本人の生徒なので親も安心ではないか、という理由からこの学校に決めました。
母は不安そうでしたが反対はせず、父は「自分がスイスに遊びに行く口実ができた」と茶目っ気たっぷりに送り出してくれました。今思い返すと、娘が短期留学から生き生きとした姿で戻ってきたことに安堵し、だからこそ応援せざるを得ない気持ちだったのかもしれません。
とはいえ、海外で寮に入りひとりで暮らすわけですから、相応にお金がかかります。学費を銀行に振り込みに行く日、母はあえて私を連れて「これを振り込みます」と札束を見せました。中学生だった私は、そんな大金をはじめて見て目を丸くしました。父と母が必死で働いて稼いだお金を私のために使っているのだと思うと、自然に「この学校でやりたいことを全部やろう」という覚悟が湧いてきました。
その思いのままに、高校3年間、私はやってみたいことすべてにチャレンジをしました。 その中には、もちろんうまくいかないこともありました。生徒会に立候補して落選したり、生意気さで先輩と衝突したり。夏休みの2か月間アメリカの大学にサマースクールに行ったときには、参加者のほとんどがアメリカ人の生徒で、勉強についていくのがやっとの状態。英語は得意だと思っていたのですが、このプログラムでは単位通過すらギリギリでした。自分は井の中の蛙だったんだな、と挫折感を覚えました。しかし、それらの経験もすべて自分の学びになりました。
授業は、先生たちが自分の本当におもしろがっていることを伝えてくれました。大学のゼミのような授業が多く、先生たちは心から楽しそうに授業をしていました。小・中学校時代の私は、自分が表現したことや抱いた疑問に対して「変わっている」という視線を向けられて、好きな学びに没頭できませんでした。「学校に大好きな『学び』を奪われた」と感じていた私は、貪るように学びました。
例えば、英米文学の授業では世界の社会現象や問題が描かれた文章を扱っていました。ある日の授業のテーマは、ユダヤ人迫害の歴史について。その場には、私も含めアウシュビッツを訪れて収容所を目の当たりにした子も多くいました。授業で取り上げたのは、ユダヤ人迫害について書かれた文学作品で、その一節では、「一見選択肢があるように見えるけれど、破滅に向かうような選択しかできない」と当時の社会状況を表現していました。私たちはその一節から何を感じ、どう考えるのかを対話しました。
また、旧ソ連の社会主義がどのような背景から生まれたのかを取り上げたこともありま した。哲学のような授業で、「こうしたことが自分の目の前で起きたときに、何を考え、どういう選択をするのか」をエッセイで書くなど、必ず自分事に置き換えて考えることが求められました。こうした授業に没頭しているうちに、私は学びの楽しさをどんどん取り戻していきました。
打ち込んだのは勉強だけではありません。文化祭をゼロから企画して立ち上げたり、ミ ュージカルをしたり。生徒が各国の大使になりきり、実際の国連の会議を再現する「模擬国連」に没頭したこともありました。私は体を動かすことも好きなので、マラソンや本のロープを使って跳ぶ縄跳び競技のダブルダッチもしていました。学校で提供されている機会はすべてに参加するような3年間でした。
そんな私がひとつだけ参加しなかったプログラムがあります。それが、ボランティア旅行でした。参加は自由ですが、海外大学進学を考えている生徒も少なくないので、ほとんどの生徒が参加を希望していました。海外大学では、入試の際にボランティアなどの課外活動を高く評価する仕組みがあるからです。
私も最初は参加するつもりで説明会まで行ったのですが、「なぜボランティア旅行に行きたいのか」という志望動機を前に手が止まってしまいました。私の心に渦巻いていた感情は、目の前にいる人たちの1日、2日の幸せはつくれても、その先の10年や100年の幸せにはつながらないのではないかという葛藤でした。もしそうなのだとしたら、私の存在価値は何なのだろうかと思い悩んでいました。
仲の良かった友人たちが続々と参加を決める中、私は応募しないことにしました。
この思いを当時の数学の先生に伝えると、「チュニジアにJICA(国際協力機構)の活動を見に行かないか」と誘われました。その先生は元青年海外協力隊員で、JICAの構造的な変革の支援や長期的な投資などにも造詣が深い方でした。私はその先生と企画を練り、先輩などを誘って8人ほどでチュニジアを訪れ、山村地域にある職業訓練センターで数日インターンシップをし、教育によって貧困から脱する仕組みや構造を作る現場を肌で感じました。私の特性を理解して学びに反映してくれた、この年にしか開催されなかったJICA旅行。こうした先生に私は救われました。
この経験から、目前の人々を救うことだけではなく、構造を見直して社会課題解決をしていく方法があることを体験的に学びました。そして、このときに、私の関心は構造的に社会課題が解決されるアプローチを探ることにあると理解したのです。
こうした私の関心に応えてくれるような取り組みはほかにないのだろうか。そう考えあぐねていたとき、ふらりと入った書店で一冊の本と出会いました。それは、貧しい人々にお金を貸し、マイクロビジネスを立ち上げることを支援するグラミン銀行を創設した、ムハマド・ユヌス氏が執筆した『貧困のない世界を創る』という本でした。読み進めるうちに、システミックに社会課題を解決する実業家のことを「ソーシャルアントレプレナー(社会起業家)」と呼び、そうした事業を「ソーシャルイノベーション」ということを知りました。
進路に悩んでいた私は、ソーシャルイノベーションへの関心をきっかけに進む大学を決めました。どうすれば貧困がなくなり、人々の自立と幸福が生まれるような仕組みとしての教育を実現できるのか。このテーマを追究するために、慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)に入学しました。
後編へつづく。
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