【幸野楳嶺(こうの ばいれい)】日本画 / 彩色 査定 鑑定 買取 致します
幸野楳嶺(こうの ばいれい)
紙本・彩色
◎幸野楳嶺の芸術
幸野楳嶺(こうの ばいれい、1844年4月20日 - 1895年2月2日)は、江戸時代末期から明治初期にかけて活躍した日本画家であり、教育者としても多大な貢献を果たしました。本名は直豊、幼名は角三郎、字は思順、号は楳嶺のほか、鶯夢、長安堂、青龍館、六柳北圃など多数の雅号を持ちました。
1844年、京都の新町四条下ルにて、金穀貸付業を営む安田四郎兵衛の第四子として生まれました。9歳の頃、円山派の中島来章に入門し、約20年間師事しました。その後、師の許しを得て四条派の塩川文麟の門下となり、1871年まで学びました。
楳嶺の作風は、教育的で知性と感情が調和したものと評価され、代表作には「帝釈試三獣図」や「秋日田家図(二宮尊徳幼児図)」があります。初期には円山派の影響を受けつつも、四条派の主流を受け継ぎ、重厚で緻密な作品も手掛けました。
教育者としても高名で、多くの弟子を育てました。「楳嶺四天王」と称される菊池芳文、谷口香嶠、竹内栖鳳、都路華香をはじめ、川合玉堂や上村松園なども門下生として知られています。弟子たちには厳しくも的確な指導を行い、基礎教育を徹底しつつ、基礎ができた後は自由に創作させる方針を取りました。
1878年には望月玉泉や久保田米僊と共に京都府知事に画学校設立を建議し、1880年に京都府画学校(現・京都市立芸術大学)が発足すると、鈴木百年と共に北宗画担当副教員となりました。その後、画学校を退職し、私塾を開設して後進の育成に努めました。
晩年には、皇居御造営に際し、皇后宮常御殿杉戸絵「山吹」「芍薬」や化粧之間格天井絵「四季草花」を揮毫するなど、重要な作品を手掛けました。1893年には帝室技芸員に任命され、その功績が広く認められました。
1895年2月2日、病没し、妙蓮寺に葬られました。法号は秀香院誠信楳嶺居士。その生涯を通じて、日本画の発展と後進の育成に大きく寄与し、近代京都画壇の開拓者としてその名を残しています。
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