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🏢ブルーノの無限と宇宙

<ELP.> それぞれの正しい運動は、このいわゆるこの世の運動と、固定した呼び名(そのうちの ひとつともうひとつは地球に関連している)にふさわしい運動とは別に、見られるもの であり、これらの運動は体の数以上の違いがある。したがって、もし運動のすべてが見 られるなら、もしそれらが我々から非常に遠いために変化を見せないのなら、二つの星 の運動の順序と測定が一つで同じであることを見ることは決して不可能だろう。太陽の 火のまわりを回り、その中心が生命熱の参加によって変換されるにもかかわらず、その 接近と距離の違いは、私たちには理解することができない。

<FIL.>そうなんですね。

<ELP.>それゆえ、無数の太陽であり、それらは無限の地球であり、同様にそれらの太陽の周 りを回っている。

<FIL.>そうなんですね。

https://www.pensierofilosofico.it/ebooks_file/deinfinitouniverso13588679021.pdf

さあ、夕食に行きましょう。

15世紀前半、ニコライ・クーサは当時広く受け入れられていたアリストテレス主義の哲学に挑戦し、代わりに中心がどこにでもあり周りがどこにもない無限の宇宙を想定し、さらに無数の星で溢れているとした[65]。 また自転軌道は円形でもなく運動も均一ではないと予言した[66]

https://en.wikipedia.org/wiki/Giordano_Bruno

16世紀後半になると、コペルニクス(1473-1543)は、惑星が固体球に固定されているという考えは維持したが、星の見かけ上の運動は地球の自転による錯覚であると考えた。また、不動の中心という考えも維持したが、それは地球ではなく、太陽であるとした。また、コペルニクスは、地球は1年に1度太陽の周りを回る惑星であると主張した。しかし彼は、惑星の軌道は完全な円(ディファレンシャルとエピシクル)で構成され、星は静止した外球の上に固定されているという天動説を維持した。

https://en.wikipedia.org/wiki/Giordano_Bruno

コペルニクスの『De revolutionibus orbium coelestium』が広く出版されていたにもかかわらず、ブルーノの時代には、ほとんどの教育を受けたカトリック信者は、地球が宇宙の中心であり、すべての天体はその周りを回っているというアリストテレスの地動説を信奉していた

日常生活してる限り、まあどっちでもいい気もするが

<FRAC.>プラトンが無知で、アリストテレスがアホで、それらに続く者たちが無分別で愚かで狂 信的であってほしいのか?

https://www.pensierofilosofico.it/ebooks_file/deinfinitouniverso13588679021.pdf

Elpino,話の聞き手であり良き理解者、飯をおごる
Filoteo,主人公ブルーノの代弁、名前はブルーノの師匠からとった
Fracastorio,医者で詩人、狂言回し的
Burchio.悪役、理解のない人 客に塩をまく
アルベルティーノ ブルーノの友達、ブルキオ降板後参加する

無限大は部分を持つことができないので、もし我々がその部分が無限大であると言いたいのでなければ、無限大にはより大きい部分とより小さい部分があり、それに大きく比例する部分とより小さい部分があるという矛盾を意味するからである。

無限大の半分、みたいな言い方ができないですけど?ということ


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