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「勤勉」がもたらす「枠内思考」。思考停止に陥りがちな危険とは?

「勤勉」がもたらす「枠内思考」。思考停止に陥りがちな危険とは? 「思考停止」と言っても、何も考えていないということではありません。私が「思考停止」と言っているのは、日本の多くの企業で見られる、無自覚に“前提(枠)”を置いて、その前提のもとに「どうやるか」を考え、“制約(枠)”の範囲でものごとを処理する、ある意味では効率的で便利な思考姿勢のことです。 これを私は「枠内思考」と呼んでいます。「枠内思考」で無自覚に仕事をすると、ビジネスモデルが安定している会社であればあるほど、

    • 新実在論とマルクス・ガブリエル ─世界の不在と「事実存在」の問題─

      マルクス・ガブリエルが現在論じている「新実在論」がどのような思想展開として位置づけられ るのかを検討し、そのうえで彼の「新実在論」において展開される「事実存在〔実存〕Existenz」概念を明らかにしたい。 彼自身の研究はそもそもシェリング後期哲学の「神話の哲学」研究をその基礎としているが、 それだけにとどまらず認識論や懐疑主義、分析哲学までその幅を広げている。「新実在論」とは彼が現在中心的に 論じているテーマのひとつであり、本稿では特にそこで重要な概念として登場する「事実

      • 相対化される教育

        勉強していい大学に入っていい会社に入っていい暮らしをするといったルートの確実性が壊れてしまった現代社会において学ぶ意味を見失った子どもは学校に通い続け勉強し続ける。なぜ勉強しなければいけないのか。この問いは切実なものである。ニーチェは「生きることの絶対的意味などは存在しないが、ああこれが生きている意味なのだと実感できた生は生きるに値する」と述べた。 教育は道徳性を育成しなければならないと訴えたところで道徳は時代によっても国や地域によっても変わるから、確かな道徳教育など不可能

        • 育てるべき人材の変化 「幸せ」の変化

           教育基本法の第1条には、「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」とある。子どもは人格的に完成していない、だから「あるべき人間像」として道徳を教え完成に導かなければならない。日本の学校教育の芯にあるのはこうした考え方だ。国家が「日本国民とは、こうあるべきだ」という恣意的な「常識」を植え付けることで日本国民として立派に労働し、納税する。結婚し、出産して子育てをする。戦争が起

        「勤勉」がもたらす「枠内思考」。思考停止に陥りがちな危険とは?

          日本の教育問題

           2000年以降、社会学、教育社会学の領域を中心に、格差社会と教育の危機をめぐる問題に焦点が当てられている。特に教育が、個人主義、市場化、歪んだ自由主義、そして、公教育への信頼の揺らぎといったことも論じられる。かつての日本社会は、終身雇用、年功序列的な雇用形態による男性労働者と、調整可能なパートタイムの女性労働の組み合わせを前提としていた。それに対して、グローバル化はより柔軟な労働市場をもたらした。グローバルな競争の激化は結果的に雇用の縮小に伴う社会的な不安定を生み出しいった

          日本の教育問題

          世界の変化—なぜ日本の教育は変化を強いられるのか

           アメリカでは新自由主義(ネオリベラリズム)の思考つまり自由市場が効率性を促進するという主張が核となる哲学を他国に輸出し、敷衍する。これは各国のグローバル経済の始まりを意味する。新自由主義とは、政府などによる規制の最小化と自由競争を重んじる考え方である。政策としては、国営、公共部門の民営化、規制緩和による経済の自由化を進める。その結果、個人や企業に対しても市場での絶えざる競争と自己革新を求めるようになる。市場での優劣勝敗が人の生活レベルに直結し「幸せ」の尺度となる。こういった

          世界の変化—なぜ日本の教育は変化を強いられるのか

          教育の正当性

           教育はすべての人が経験したことがある「共有可能なもの」である。  すべての人がそれなりに関心を持っているといっても過言ではない。しかし、教育には絶対的な正解などない。教育には多くの教育思想があるだけである。どんな教育方法学も教育心理学も全て教育思想に還元されてしまう。教育学というのは結局どんな考え(最終到達点)に基づいて実行し、どんな教育的成果を得られるかという問題を研究している。教育方法学ではPDCAサイクルに則った教育実践がされるべきだという理論が敷衍している。Plan

          教育の正当性

          ジャック・ル=ゴフ (著) 菅沼 潤 (翻訳)『時代区分は本当に必要か? 連続性と不連続性を再考する』藤原書店 2016年

           歴史も、歴史の素材である時間も、まずは連続したものとしてあらわ れる。しかし歴史はまた変化からもつくられている。だから専門家たち は昔から、この連続のなかからいくつかの断片を切り出すことで、こう した変化をしるし、定義しようとしてきた。これらの断片はまず歴史の 「年代」と呼ばれ、ついでその「時代」と呼ばれた。    「時代」という言葉が14-18世紀のあいだに「期間」や「年代」の意味をもつようになり、「時代区分」という言葉、その概念はやっと20世紀になって生まれたとしてい

          ジャック・ル=ゴフ (著) 菅沼 潤 (翻訳)『時代区分は本当に必要か? 連続性と不連続性を再考する』藤原書店 2016年

          「よりましな」指導法を目指して/ダークペタゴシーの代替案

           ダークペタゴシーの代替案として何が考えられるだろうか。大きく二つの対案を示したい。    一つ目は、倫理的に問題がない教育を指す「ホワイトペタゴシー」である。わかりやすい例で言えば「ほめて伸ばす教育」「カウンセリングマインド」「個性に寄り添った発達支援」などがこれに当たる。往年の映画「二十四の瞳」「学校」やドラマ「3年B組金八先生」などを見れば分かる通り、こうして教育方法は昔から規範として扱われてきた。  教育学者で東京学芸大学の伊藤秀樹講師によれば、近年は「ほめて伸ばす

          「よりましな」指導法を目指して/ダークペタゴシーの代替案

          ダークペタゴジーについて/なぜ起きるのか?その要因

          これまでの記事では、ダークペタゴシーの具体例を挙げてきたが、その要因について考えたい。例えば、同じような指導場面に置かれた場合、生徒を怒鳴りつける教師もいれば、生徒に根気強く対話を試みようとする人もいる。その差は何に起因するのか。 第一の要因に教育への信念が挙げられる。例えば、「生徒になめられたら終わり」という生徒不信ベースの教育信念を持つ教師は、生徒に対して最初からマウンティングを仕掛けて立場の違いをわきまえさせようとする傾向にある。 第二に過去の経験が挙げられる体罰を受け

          ダークペタゴジーについて/なぜ起きるのか?その要因

          ダークペタゴジーについて/スパルタ教育

           「しごき稽古」と類似したダークペタゴシーとしての「追い込み指導」が挙げられる。努力不足の叱責、スタメン外しや退部、退学などの不利益な処遇をちらつかせ、被教育者を窮地に追い込み、苦境を脱するための試行錯誤を通じて成長させようとするものである。  日本大学アメフット部の選手による危険タックルはその最たる例だ。「相手チームの選手をつぶせ」という監督やコーチの指示に従って危険タックルをし、相手選手を負傷させた。加害選手は試合や練習を禁じられたばかりか、日本代表チームへの参加を辞退す

          ダークペタゴジーについて/スパルタ教育

          新実在論について

          新しい実在論 Aさんが京都にいて比叡山を見ているちょうどその時に、わたしたち(この話をしている私と聞いている、読んでいるあなた)は滋賀にいて同じ比叡山を見ているとします。 このシナリオに存在するのは、Aさん(京都)から見る比叡山、わたしたち(滋賀)から見る比叡山ということになります。 形而上学の主張によると、このシナリオに存在している対象はたった一つだけです。すなわち比叡山です。比叡山は比叡山。どこからに見られようが、誰に見られようが全く問題にしません。これが形而上学です。

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          人間の存在について

           ポストモダンは人類救済の壮大な約束ー宗教から近代科学を経て、左右両翼にわたる全体主義のあまりに急進的な政治理念に至るまでーのすべてが反故になってしまった後で、徹底的にはじめからやり直す試みでした。ポストモダンは、伝統からの断絶を徹底しようとしました。わたしたちのだれもが追及すべきなんらかの意味がこの人生にはあるのだという幻想から、わたしたちを解放しようとしたのでした。ところが、そのような幻想からわたしたちから解放するためにポストモダンがしたのは実際には新しい幻想を生み出すこ

          人間の存在について

          学歴の意味

           学歴・学歴主義の機能 個人レベルで学歴は,①地位達成や立身出世の手段になる。学歴が知識・技能を習得したことの証明として獲得されるものであるから。②学校教育が拡大し,学歴主義が制度化するにつれて,学歴は意味が拡大 して知識・技能の証明から資格証明へと転化し,さらに能力一般や人格をも含意するようになる。 学歴主義の汎化は,システム・レベルでは,③メリトクラ シーを促進する。メリット(能力+努力)を評価すべきだという考え方が規範 化し、メリットを追求する競争が常態化する。

          学歴の意味

          学歴の機能

          学歴の機能  学校の機能は,まず一定の知識・技能を授けること=教育・社会化機能にあるので,卒業証書はこれらを修得したことを示している。そして,今日では特定の職業に就くためには特定の学校の卒業資格が必要とされることが多いので,学歴は職業の資格でもある。これは学歴の道具的価値である。さらに,学校は入学試験によって受験生を選別している。倍率の高い一流大学の入試に合 格したことは,ある人がすぐれた能力をもっていることを証明している。また,ある人の学校での成績は,理解力,判断力,記憶力

          学歴の機能

          日本型学歴主義

          日本型学歴社会 日本では,学歴社会がネガティブなイメージでとらえられ,「学歴社会の病理」が喧伝されているのはなぜなのだろうか。 イギリスの社会学者R・ドーアは,『学歴社会―新しい文明病』において, つぎのように主張している。 どこの国でも教育機関は教育機能のほかに選別機 能を果たしているが,前者が後者によって抑圧され,一片の卒業証書のために 競争する状況が世界的に進行している。これは反教育的な新しい文明病であ る。また,学歴社会は,程度の差はあっても近代社会に共通して見ら

          日本型学歴主義